928 霧の北京

先日、仕事で北京に行った。1週間ほどの滞在だったが、とても刺激的な旅だったと思う。仕事だったので、単純に楽しいという旅ではなかったのだが、様々な北京の「都市生活の断片」をかいま見ることができた。だが、それらはものすごいボリュームの未知の情報で、わたしの既成観念に強く変更を迫るものだったので、帰国したあとはしばらく何も手につかなかった。今でも北京の光景がフラッシュバックのように断片的に甦るが、まるで幼児が画用紙の上に描いたクレヨン画のように、強烈な濃度を持っている。ただ奇妙なのは、日本に帰ってテレビやニュースサイトを見るたびに霧のようなものが発生し、それらの記憶が霞んでしまうような気がしたことだ。わたしが実際に霧のかかった光景について思い出しているのか、それとも何か観念的なものが霧の映像を喚起しているのか、わからない。

実際、北京は霧に覆われていた。天気が悪いわけではない。大気汚染とか黄砂とか、原因はいろいろあるらしいが、とにかく滞在期間中、ほとんど青空を見ることはなかった。建物は輪郭を失い、ひどいときは1ブロック先の道路も見通せない。まるで標高2000メートルの高山都市にでもいるような気分だが、幻想的な感じもある。空港から都心に向かう高速道路もずっと霧に覆われていて、わたしは異空間に迷い込んだかのような錯覚にとらわれた。まるで東京から飛び立った飛行機が、名前を持たない未知の都市に着陸してしまったというように。その都市には超高層ビルが林立している。わたしは高架の上の高速道路を、タクシーに乗って都心に向かっている。都市全体が霧に覆われているので地形を把握することはできない。見えるのは超高層の住宅やオフィスやホテルの煌びやかなネオンだけだ。やがてわたしはビルの側面に取り付けられた中国語の看板を見て、ようやく北京にいることに気づく。

中心街にはカーテンウォールのオフィスビルが建ち並び、一等地に位置するパーク・ハイアットが心地よい滞在を約束し、複合型のショッピングモールの中にはユニクロと資生堂とアルマーニがある。道行く人は仕立てのよいスーツかスキニージーンズを穿き、至るところにある露店でヴォーグとエルの現地語版を買うことができる。人々が集うのはマクドナルドかスターバックスで、店内には最新型のMacBookを開いて作業をする個人の姿もある。だがひとたびビルの裏側に出ると、低所得者層が住む古い地区があり、その一部はスクラップにされて新しいビルが立ち上がろうとしている。

上記は現在の北京の状況だが、あえて北京のことですよと言わなければ、どこの都市の状況を描写したものなのかよくわからないことに気づくだろう。ニューヨークでもロンドンでも東京でも、おそらく同じような描写で都市について説明することができる。コールハースが言うように、都市はその特徴を失って「ジェネリック」になり、次々と複製され、取り替えが可能になる。だから、東京から北京に行っても、まるでまだ東京にいるかのような感覚にとらわれることになる。

しかし、よく考えてみると、日本人にとって、そういう体験をするのは初めてなのかもしれない。日本が世界第2位の経済大国になって以来、東京を超える規模の大都市は世界に存在しなかった。ニューヨークやロンドンやパリは大都市だが、規模の上では東京よりはるかに小さい。東京を上空から俯瞰すればわかるが、超高密度の集積回路のように建物が地面を覆い尽くしている。つまり、名実ともに世界一の大都市だったということになるが、今後、その地位は急激に低下することになるだろう。アジアや中東や南米やアフリカの各地に大都市が出現し成長するが、東京はゆっくりと、だが確実に衰退していくことになると思われる。今までは東京に憧れて世界各地から外国人がやってきていたが、今後はその立場が逆転することになるわけだ。

北京に行くとそのことを実感する。北京に行ったのは、ちょうど尖閣問題の影響で中国への渡航者が減少したというニュースが流れていたころで、いろいろな人に大丈夫かと心配された。もちろん大丈夫だったが、それ以前に、北京では日本人など眼中にないという空気をあらゆる場所で感じた。人民元が高くなり、日本円が相対的に弱くなっているということもあると思う。たとえば北京のデパートに行っても、物価が東京とほとんど同じなので、何も買う気にならず、店員は「日本人は見ているだけで何も買わないな、北京の金持ちを相手にしたほうが効率がいいな」と判断することになる。飲食店やホテルでも同じだ。金を使う日本人が減少すると、日本人など相手にしてもしょうがないという空気が生まれるようになる。またビジネスでも、日本からの受注が減り、中国国内や新興国からの受注が増えると、日本の存在感は相対的に減少する。

要するに、政治的な感情とは無関係に、身も蓋もない金回りの良し悪しで、その国の存在感は決まってしまう。中国が豊かになり、日本の経済的地位が相対的に低下するのを嘆いているわけではない。ただ、政治的なイシューだけで中国を見ると、正確に事態を見ることができないばかりか、気づいたら経済的に置き去りにされていたということになりかねない。現実に、メディアの報道は、シビアな経済的イシューを感情的な政治的イシューで覆うことによって、日本が置き去りにされていく現状が隠蔽されるようになっている。おそらくそれは、置き去りにされることに耐えられない多くの日本人にとって幻覚剤のような効果をもたらす。だが、それがいつまでもつのかわからない。

尖閣諸島沖の漁船衝突事件では、衝突した漁船の船長があたかも「中国の悪意」を代表しているかのように祭り上げられ、勧善懲悪を果たせなかった菅内閣は徹底的に批判された。現在ではかなり収束した感があるが、一時は「中国人は悪い奴だ」という空気が日本中を覆い尽くし、反対意見が許容されない雰囲気があったと思う。レアアースの対日輸出停止やフジタ社員の拘束など、中国側の強硬な対応も影響したのだろうが、とにかく異様な雰囲気だった。「中国人は悪い奴じゃない」と言いたいわけではないし、もちろん、日本人としてわたしも一定の怒りを共有している。だが問題は、それによってすべての中国人が悪者であるかのような先入観が生まれてしまったことだ。

漁船の船長の顔を毎日テレビで見ているうちに、中国という国家が13億もの個別の人間の総体であることを忘れてしまうのである。彼らのほとんどが、漁船の船長とは無関係だし、中国政府の決定にも関わっていない。しかしメディアは、漁船の船長を賞賛する中国国民や日の丸を踏みつぶす反日デモの集団を次々と映し出し、あたかもすべての中国人が日本に悪意を持っているかのような錯覚を引き起こす。それは中国の現実を知りたくない人々にとっては心地のよい錯覚だ。「あいつらは道徳性のかけらもない野蛮なひどい奴らで、わたしたちより人間的に劣っている」と思うことができ、「だから、中国など取るに足らない」と結論づけて、発展し豊かになる中国について考えずに済む。

わたしは北京で知り合った若い中国人に「日本について率直にどう思う?」と聞いてみたのだが、その答えは、「領土問題とか、いろいろあるけれど、わたしにはあまり関係がないし、興味もない。それで日本が嫌いになるわけでもないし、こうやって日本人とも普通に話す。ただ、お爺さんの世代はまた違うと思う」というものだった。これは、80後(バーリンホウ)と呼ばれる中国の若い世代の代表的な意見だと思われる。彼らは78年の改革開放政策以後に生まれた世代で、政治意識が低いが、海外の文化的・経済的な動向には興味を示す。日本に対しては反感を持っていないが、特に友好的というわけでもない。ただ、日本の衣料品とか化粧品、アニメなどのクオリティの高い商品を、政治意識とは無関係に、積極的に消費しようとするのだ。

だが、当たり前のことだが、日本に対して反感を持っている若い人もいる。尖閣諸島をめぐる反日デモの中心的存在となったのは、地方都市に住む若い世代だった。わたしは今回、そういった人に接触しなかったが、日本に対して圧倒的な反感を持っている人と接触していたら、中国に対する感想も違うものになったのかもしれない。わたしは北京で、東京を凌ぐ規模の大都市が建設されているのを目の当たりにし、その中で日本人の存在感が相対的に小さくなっていることを、はっきり言えば無視されていることを肌で感じた。それは新鮮な体験だったが、ショッキングでもあった。

そういう体験をしたあとで、これからの「日本人」とか日本人のアイデンティティについて考えると、憂鬱になる。それは次第に摩耗して小さくなっていくほかないからだ。じゃあ「中国人」におもねって生きていけばいいのかというと、それも違う。全体としての「中国人」など存在しないからだ。ただ、日本に引きこもっているかぎり世界の最先端の文化・経済から取り残されるという事態は、もう止めることができないだろう。高いクオリティの仕事をするためには、海外の大都市に出て行かざるをえなくなる。海外に出て行くのは国家や「日本人」などではなく、個人や個別の企業だ。感度の高い個人や企業は既に海を渡り、「日本人」というアイデンティティに依拠することなく、個別のスキルや技術を武器に新しい仕事を獲得している。

ただ、すべての日本人にそれが可能なわけではない。日本のメディアを見ていると、いかに海外の状況を把握し個別の仕事に繋げるかという現実的な課題ではなく、いかにアジアを始めとする諸外国に優越感を持ち続けるかということが暗黙のうちに優先されていることがわかる。もちろんそれは幻想だが、そのために日本から見た海外の印象と実際の現地の状況とが乖離することになる。とはいえ、「海外に目を向けましょう」とアナウンスしてみたところで始まる話ではないし、そんなことに意味はない。ただ身も蓋もなく、ますます日本に引きこもる層と、軽々と国境を越えて世界各地の大都市に展開する層とが、はっきりと二分されることになるだろう。ドメスティックになり続けるかぎり閉塞感は続き、怒りの矛先が政治家やマイノリティに向けられるが、エネルギーそのものが失われているので特筆すべき事態には発展しない。そのため閉塞感が持続するが、一方でごく一部の人々は新興の大都市に移動し自由な経済活動を展開する。

その点で、東京は日本の首都としてではなく、別の大都市に向かうための拠点の一つとして認識されることになるかもしれない。向かう先は東京とうり二つの、匿名の都市だ。どこか既視感のある超高層ビルのランドスケープと世界的に流通する食品や衣料品がわたしたちを出迎える。高級なチェーン・ホテルでは東京都心と変わらない快適な滞在が提供されるが、違いもある。その違いが、わたしたちがそこを訪れる理由だ。その都市では、何か新しいことが発生している。そのことに気づいているのは日本でもごく一部の人々だけで、日本国内に適用されるあらゆる閉鎖的なシステムからは何も見えず、霧の中に沈んでいる。

927 ラゴスに行きたい

およそ5ヶ月ぶりの投稿になる。お久しぶりです。この5ヶ月の間にさまざまなことがあり、ブログの記事という形でアウトプットできそうな情報もいくつかあったが、当ブログの特性上、それができなかった。当ブログには書き手であるわたしの人間臭さのようなものがない。それは当ブログのコンセプトの一つでもあったし、努めて消してきたのだったのだが、それでは肝心なことが書けないことに今さらながら気がついた。というわけで、そういうものを少しずつ出していければと思います。といって、また次の投稿が5ヶ月後という可能性もあるが……。

わたしがブログの更新をサボっている間、Twitterが無視できない規模で流行し、iPadが発売され、首相が代わり、近所の桜の木に毛虫が這い始めた。個人的にはターニング・ポイントとなりそうな仕事が舞い込んだ。それについては、「ターン」がうまくいけば、いずれこのブログでも報告することができるだろう。Twitterについては使っていないので詳しいことが言えないが、凄まじい勢いで現象化していく様子を見ていると、社会福祉として機能している部分があるのではないかと思うようになった。病気になったら国が医療費を支給してくれるように、すべての孤独な人にTwitterというプラットフォームが支給されているということだ。仕事に疲れ、内側に空虚な孤独だけを抱え、何かを外に向かって吐露したいがどうすればいいのか皆目見当もつかない、そういう人々がTwitterで救われるならいいのだが、今のところポジティブな印象はない。ただ、仮にそれが社会福祉として機能しているのだとしたら、無責任に全否定するわけにはいかないということになる。それについては、何か別の形で書くことができればと思う。

GA galleryの「第18回〈現代世界の建築家〉展」、ギャラリー・間の「デイヴィッド・アジャイ展」という2つの建築関係の展覧会に行った。デイヴィッド・アジャイは期待したほどではなかったが、〈現代世界の建築家〉展のほうではいくつか収穫があった。特に興味を惹かれたのは伊東豊雄の「ゲント市図書館及びニューメディアセンター」とSelgascanoの「Merida Factory Youth Movement」だった。いずれも都市の「センター」をつくる計画だが、伊東豊雄が凝縮された都市の模型のような凄まじい建築物を提出したのに対して、Selgascanoは半透明の軽やかな屋根でその場を覆うだけという、こちらも凄まじいプランを提出していた。屋根で覆うだけといえば西沢立衛の「熊本駅東口駅前広場」があるが、超開放的な建築というのは一つの方向性として確立されてきたのではないかと思う。

数年前から、建築を通して社会を見るという習慣が常態化している。わたしは別に建築の専門家ではないし、建築を集中的に勉強したわけでもないのだが、建築には期待するところが大きいし、しばしば建築に内在する希望を勝手に見いだして勝手に勇気づけられたりしている。それはたぶん、建築が良くも悪くも社会システムの最前線に位置しているからだろう。そもそも、広義の建築=建築物は世界中の都市のあらゆる場所にある。それは寝起きする自宅から駅やオフィスビル、昼食のために行く定食屋まで、社会システムを具象化したものとして生活のすべてを規定している。逆に言えば、それを反転させれば、建築を変化させることで社会システムそのものに攻撃を仕掛けるのも夢ではないということだ。

ただ、当たり前のことだが、そう簡単にはいかない。建築家は常にクライアントとの関係の中で建築をつくらなければならないからだ。普通のクライアントは奇抜な設計を嫌う。それが大企業や官公庁ともなればなおさらだ。何百億何千億というお金をかけてできたものが欠陥建築だったら洒落にならない(都庁舎はその意味で大きな教訓を残すだろう)。だから、「建築家は余計なことをやらないで言われたとおりにつくってください」ということになる。余計なこととはたとえば人の流れの滞留やプライバシーの露見、不測の出会いといったことが起きるような仕掛けをつくることだ。だがクライアントはその建築が社会の中でうまく回っていくことを希望する。かくして社会システムを攻撃する芽は摘まれてしまう。

とはいえ、スター建築家と呼ばれるような人たちを外側から見ると、案外好き勝手につくっているのではないか、と思ってしまうかもしれない。たとえば「劇的ビフォーアフター」というリフォーム番組を見ると、匠と呼ばれる建築家が好き勝手にクライアントの家をリフォームし、最後に「どうですか」と自慢げに家の中を歩いて回るという構成になっているが、実際の建築家 ‐ クライアントの関係がそんなものであるわけがない。1年ほど前に都内にいくつもの作品を持つ著名な女性建築家を取材したことがあるが、女性建築家はクライアントにめちゃくちゃに言われる日々だと言っていた。「先生の作品は建築の進化した形態だと思うので取材に来ました」と言ってわたしは取材させてもらったのだが、女性建築家はそんなことを言われるとは思わなかったと言って驚き、クライアントにめちゃくちゃに言われる日々だと言うので今度は逆にわたしが驚いた。その女性建築家はそこにいる人を自由にしてしまうような作品をいくつも社会に送り出しているが、建築の側から社会システムを攻撃するのは想像以上に困難なことなのだ。

だからこそ、明らかな逸脱を内包した凄まじい建築に出会うと、「よくぞ」というか、その場にひれ伏して拝みたいような気持ちになるのかもしれない。たぶん、現代の建築家の中でもっとも逸脱に成功しているのはOMAの創設者レム・コールハースだろう。AMOというシンクタンクをつくり、都市を徹底的に分析した電話帳のような本を出版して次々と仕事を獲得していく彼のスタンスは、一方では社会システムに「うまく乗っている」と評されることがある。だが他方では、明らかに建築の側から社会システムを攻撃しようとしている。たとえばコールハースは、都市や建築にヴォイド(空洞)を積極的に挿入し空間の公共性を確保しようとする。それは、糸の先ほどの隙間もない超過密都市にあえて建築的に無意味な空間を投入し、都市の自由を獲得しようとする試みにほかならない。またスキポール空港のプロジェクトでは、世界中の都市を凝縮したような人工島をつくることを提案し、かつてない密度の交流が行われる可能性を示した。

だが、わたしは個人的に、コールハースの攻撃性がもっともよく現れているのはハーバード大学と共同で行ったラゴスのリサーチだと思う。ラゴスはナイジェリア最大の都市で、人口は1000万とも1500万とも言われているが、ほとんどがスラムの住民なのではっきりしたことはわからない。わたしはラゴスに行ったことがないが、手に入る資料や映像を見る限りでは、恐ろしい密度で人が街に溢れている。高速道路や幹線道路にまで人が溢れ、人を縫うようにして走る車に次々と売り子が声をかける。都市交通はマヒし、主な建築はスラム街のバラックという状況だが、それでも都市は機能しているとコールハースは言う。つまり、トップダウン式に社会システムを押しつけるまでもなく、無数の他者同士の相互作用によって秩序が生まれているというのだ。コールハースによれば、それは近代化されていない社会の未熟な段階に過ぎないのではなく、むしろわたしたちのほうがラゴスに追いつこうとしているのかもしれないという。

この見方には当然批判もあるだろう。ラゴスについてのリサーチを纏めた「Lagos – How it Works」という本が出ていたが、どういうわけかあっという間に絶版になってしまった(その要約版は『Mutations』に収められている)。コールハースは日本でもラゴスについて講演したことがあるが、聴衆の反応は恐ろしく悪かったらしい。ただ、社会システムの根本的な転換に言及したという点で、ラゴスはコールハースの一つの到達点と言えるのだろうと思う。ラゴスは治安が悪く、外国人は入りにくいということもあって、情報が少ない。ワールドカップで治安が問題になった南アフリカより遙かに危険らしいので、正確な情報とボディーガードがいなければ入ることは難しい(実際にコールハースも行かないほうがいいと言っている)。だが、湾岸地区に高層ビル群を中心とした計画都市がつくられつつあり、そこから出てくる近代的なシステムとスラム街の自生的な秩序が対立することも考えられ、ラゴスは今後ますます面白くなるだろう。

さて、ラゴスを訪問する日は来るのだろうかと思うが、案外その日は近いのかもしれないという気もしている。

926 なんとか可能かもしれないこと

「結婚」が時代を象徴するキーワードになって久しい。近代化が終わって女性が社会進出し男性の給料が減っているのだから、男性が女性を養うという旧来の結婚のモデルが変化するのは当たり前だが、日本社会ではまだそれが当たり前のことになっていない。変化したのは、(金持ちの)いい男を探すのは大変だという認識が生まれたことくらいだ。実際に女性を養えるほどの収入がある男は滅多に見ることができない珍獣のようなもので、都会の至るところにいる草食動物を見て、またこいつらかと女性はゲンナリするのである。

だが、結婚できたからといって必ずしも幸福になれるわけではないようだ。わたしは今年で27になるが、結婚してよかったという話を周りから聞いたことがない。ひょっとするといい結婚生活を送っている人はそのことをいちいち他人に話さないのかもしれないが、結婚するんじゃなかったという話は至るところから聞こえてくる。毎日が鬱でしょうがないという話もあるし、結婚はいつから苦行になったのだろうと思うが、結局のところ、新しい結婚のモデルに対応できていないことが問題なのだろうと思う。

以前、電車に乗っていたら婚活中と思しき女性二人組が大声で男の品評会を始めたので、ついつい聞き入ってしまったことがある。でも〜、○○くんは何か子どもっぽいっていうか、話が合わないっていうか、こう、とにかく子どもっぽいのよね。いやね、別に年上じゃなくってもさ、大人っぽいっていうか、話が合う人っているじゃん?何て言うの?そう、包み込んでくれるような。わたしはそんな人じゃないと駄目なの。そういうことを言った女性Aは今後ともとても結婚できそうではなかった。

新しい結婚のあり方というのは、共働きでないと結婚生活が成り立たないカップルの絶対数が増えていくということだ。また運よく金持ちの男性と結婚し専業主婦になった女性でも、今後はそういう女性がマイノリティになるために、社会的な孤独を味わうリスクが生まれる。つまり、二人分の生活費を捻出できる男と一緒になって専業主婦になり悠々自適の生活を送るという結婚のモデルはとっくに崩壊しているし、それで幸福になれる人も限られている。

女性Aは、新しい結婚のモデルに対応できず、金持ちの男をつかまえるという選択肢も現実的とは思われないにもかかわらず「草食系」の男を斬りまくったので、一緒にいた女性Bからも顰蹙を買っていた。

人生には「なんとか可能かもしれないこと」と「絶対に不可能なこと」の二つしかない。それは気の持ちようみたいなもので変えられるものではなく、社会的状況や自分をとりまく環境などによって客観的に完全に規定されている。だから「絶対に不可能なこと」を可能だと思い込むことには意味がないが、それでも可能だと思い続けるのは「幻想」だ。たとえば、男の年収が一五〇万円しかないのに、その男と結婚して専業主婦になり悠々自適の生活を送るというプランを描くことははっきりと幻想なのだ。

幻想に囚われた人は、いつも自分の人生はうまくいかないと嘆き続けることになる。どうしてわたしの希望は実現しないのだろう、どうして夢は叶わないのだろうと思って社会や自分自身を憎むのだ。だから「絶対に不可能なこと」について考えるのは時間の無駄だということになる。そんな暇があったら、「なんとか可能かもしれないこと」を考えなければならない。

ただ危険なのは、「絶対に不可能なこと」は夢や希望を持つということと取り違えられ美化されている部分があることだ。幻想を抱くことは幻想の中にいる間に限っては楽しい。だが反対に「なんとか可能かもしれないこと」を考えるのは憂鬱だ。というのもこれは、自分に対する幻想をすべて捨て、自分の状況で可能なのはこれしかないというものを一つだけ拾い、それに従って(夢も希望もない)決められた作業を淡々とこなしていくということを意味しているからだ。

とはいえ、幻想を抱く可能性があるのは新しい結婚のモデルに対応できない女性だけではない。草食系と言われ(一部で)もてはやされている男性たちは、女性が時代に適応し自立するようになると完全に見放されてしまうだろう。だから、社会の変化に敏感になるということには、「絶対に不可能なこと」を「なんとか可能かもしれないこと」だと思い込まないという点においても意味がある。

925 クリティカル・コード

このブログのタイトルは『code6』で、「コードシックス」と読むのだが、まれにこのタイトルの意味とか由来の説明を求められることがあって、そのたびにわたしは違うことを言う。「誰も読まないだろうし適当につけたんですよ」とか「いや実は深い意味があるんです」と言って適当に答えるのだが、最近になって『code6』が包含する意味を一言では説明できないことに気づいた。ブログのタイトルというのは『○○日記』とか『○○の日常』といったものから、非常に抽象的で示唆的なタイトルまで様々だが、案外安易につけられているような気がする。時間をかけて練られていない、ということではない。自分のコンテンツに関する自覚がないのではないかということだ。ブログにせよ本にせよ、タイトルはその中身の象徴である。しかし、ブログが本と違うのは、基本的には終わりがないということだ。

「code6」という言葉は『24 -TWENTY FOUR-』というアメリカのドラマから取った。CTUという架空のテロ対策ユニットの捜査官、ジャック・バウアーの活躍を描いた人気シリーズだが、「code6」というフレーズはシーズン5の中盤に出てくる。「code6」とはCTUの内部コードで、「総員退避」を意味している。もちろん、よほどの緊急事態でないと、これは発令されることがない。ドラマの中で、CTUとジャック・バウアーは神経ガスを使ったテロの情報を入手し、犯行が予定されている施設を割り出そうとするのだが、実はそれがCTUの本部だったことが判明する。その瞬間に、「code6」が発令されるのだ。職員はすぐに避難を始めるが、神経ガスは既にCTU内部の空調に乗って散布されており、多くの職員が命を落とすことになる。

とはいえ、CTU内の隔離施設に避難することで、主人公であるジャック・バウアーを始めとしたCTUのコア・メンバーは何とか生き残ることができる。わたしはこの場面に『code6』の着想を得たのだった。「code6」は「総員退避」を意味しているが、これ以上の緊急コードが存在しないという点で、もっとも危機的なコードだということもできる。つまり、CTUという組織が最大の危機に晒され、職員の生命が失われようとしているときに限り、このコードは発令されるのだ。また、「code6」は、テロ対策の戦略上、職員の生命は保護される必要があることも示している。最高度の内部コードが発令された後も、テロ対策ユニットの職員は生き残ってテロ対策を続けなければならない。要するに、「code6」は「終わり」を意味しているのではなく、次のフェーズがあることも同時に示唆している。現に、ドラマの中で、ジャックたちは様々な困難を乗り越えて生き残り、テロ対策のミッションに復帰した。

ただ、「code6」そのものには、そういった意味は含まれていない。内部コードというのは組織内の取り決めのようなものだから、構成員に「code6」の意味を理解させ、共有しなければ機能しない。「code6」は、具体的に言えば「クリティカル・コード」といった意味になる。英語のcriticalには危機的というニュアンスがあるが、批評的・決定的というニュアンスもある。だから、「クリティカル・コード」は三つの条件を満たしていなければならない。危機を回避し自分の生命を守るということと、現状を吟味し正確に把握するということ、それに現状を打開するためにもっとも有効な手を打つということだ。しかし、タイトルを『クリティカル・コード』にしたのでは面白味がないので、『code6』のままにしておいた。

このブログは「クリティカル・コード」を提供します、という意味でわたしは『code6』というタイトルをつけた。つまり、この困難な時代に自分の生命を守り、現状を把握し、現状を打開するための基本的な考え方や概念を示したいと考えていたわけだ。だが、もう少し普遍的なことも考えていた。それは、「クリティカル・コード」を受け取り、発信できる個人だけが、この世界で精神的・肉体的に生き残るのではないかということだ。「コード」というのは記号一般を指す言葉で、言葉そのものもコードの一種だが、概念を少し拡げると、個体と個体の間で交わされる情報はすべて「コード」だと言えるだろうと思う。

一般システム理論では、世界を個体と個体との間で取り交わされる情報の総体として捉えるようだ。人間であれ動物であれ、あるいはモノであれ、この世界に存在する個体は外部との情報のやりとりを通じて生命を営んでいる。人間は酸素を吸い込み二酸化炭素を吐き出して呼吸をしているが、一方でニュースを見てブログに日記を書いたりもする。だが、呼吸をすることと日記を書くことという二つの行為は、情報という観点から見れば見分けがつかない。いずれにしても、コードされた身も蓋もない情報が交わされているにすぎないからだ。情報が何らかの意味を持つのは、それが受信された個体が変化し、システム全体が変容するような事態にまで発展したときだけである。つまり、他人に影響を与え、社会が変化して初めて、その情報は重要だと認識されることになる。

このことは、個人の社会的成功と密接に関わっている。社会的成功というのは、有名になって超高層マンションの最上階に住むということではない。社会に決定的な影響を与えられるかどうかということだ。もちろん、そんなことはどうだっていいという人もいるだろう。先日、電車の中で頭の良さそうな高校生の二人組みが進路の話をしていたのだが、終始学歴と資格の話題しか出てこなかったので驚いた。そういう若い人は増えているらしい。要するに、うまく生きなければならないというプレッシャーだけがあって、目的がない若者だ。彼らは、学歴や資格といった戦術的な武器を必死で使いこなそうとしているように見えるが、制度に従っているだけで、実は最初から安全地帯にいる。安全地帯にいる人は危機の回避も現状の把握・打開も不要なので、「クリティカル・コード」を発信することができず、結果的に社会的に成功することがない。

社会的に成功するということには、無数のありふれた群衆の中から突出する、というニュアンスが含まれている。たとえば、単にいい人というだけだったらありふれている。強く人を愛することができる人というのもありふれている。だが、そういった無数のありふれた群衆の中から、マザー・テレサのような人は出てくる。マザー・テレサと普通の人はどこが違うのだろうか。もちろん、「ずば抜けた聖女だった」という言い方は可能だろうが、わたしは少し違うと思う。単に聖女だったというだけなら、マザー・テレサが達成したような経歴は決して出てこない。わたしはおそらく、「いい人」といったこととは別のレベルで、彼女は突出していたのだろうと思う。

それは無数の重要な情報を取り交わしたということだ。たとえば、イスラエルがレバノンに侵攻したとき、彼女は首都ベイルートの病院に取り残されていた60人の脳性麻痺の子どもたちを救出した。しかし、少し考えてみればわかるが、無数の銃弾が飛び交うベイルートに入って病院の子どもを救出するなどということは、ほとんど不可能なことだ。第一、イスラエル・パレスチナ(PLO)双方の攻撃によって自分が死傷する可能性があるし、運よく病院までたどり着けたとしても、60人もの脳性麻痺の子どもたちを移動させるのは至難の業だ。そもそも、子どもたちを救出できたとしても、病院に無許可で行えば、拉致とみなされるリスクがある。だから、子どもを救助する人員を確保し、イスラエル側・パレスチナ側双方に停戦を働きかけ、何万人もの子どもたちを救ってきた実績を示しつつ、子どもたちを救助する政治的体制を整える必要があったわけだが、彼女はそれらをすべてクリアした。

つまり、単にいい人というだけでは世界は変えられないのだ。言い換えれば、圧倒的にいい人であろうとするためには、単にいい人であってはいけないことになる。仮に、何の準備もなく一人でベイルートの病院に突っ込んでいったら、それはいい人でも何でもなく、ただのバカとして非難されるだけだろう。逆に、本当に子どもたちを救出したいと思ったら、現実的で気の遠くなるような作業をこなさなければならない。それにはまず必要な情報を収集し、必要な人間に自分の情報を伝えなければならない。それも、ただ自分の願望を人に伝えるというだけではダメで、絶対に伝わるように情報を吟味・検討する必要がある。マザー・テレサはそのような情報の使い方をどこかで学んだのだろう。結果として、その情報は他人を動かし、社会を変化させ、彼女は世界に不可欠な存在となった。

だが、ほとんどの人は「いい人が偶然有名になった」くらいに考えているのではないだろうか。そのような漠然とした希望的観測は「クリティカル・コード」の敵だ。「クリティカル・コード」の受信・発信には常に具体的で気の遠くなるような作業が待っているが、それを想像できない人は結果的に社会に埋もれてしまうだろう。たとえば、どんなクラスや部署にも必ず一人はいるだろうが、人づきあいをうまくこなせば社会的に成功するのだと漠然と思っている人がいる。飲み会の誘いは断ったことがなく、あらゆるグループと交際があって、いつもまとめ役を買って出るというタイプだが、そういう人たちは前述した高校生と同じで、決して社会的に成功することがない。なぜなら、彼らは情報を取捨選択しようとしないからだ。重要な情報はどこにでもあるわけではなく、それに出会うためには常に情報の吟味が必要なのだが、それはある情報をソースごと切り捨てることでもある。

要するに、絶対に必要な情報だけを収集するには、自ずとソースに優先順位をつけなくてはならないということだ。ソースというのは書物やウェブサイトの場合もあるが、組織や個人の場合もある。わたしはある絶対に必要な情報のために特定の個人に会いに行くことがあるが、優先度1位がついた個人にはすべてを犠牲にしてでも会いに行く必要がある。ただ、場合によっては優先度1位の個人が接触不可能になることもある。だから、2位以下も設定しておかなければならない。1位の個人に接触できないからといって駄々をこねたところで、誰かが情報を提供してくれるわけではないからだ。それは情報獲得のための基本的な戦略だと思う。ところが、「人づきあいのいい人」に限って、そういうときに打つ手がなくなる。「裏切られた」とか「お前に賭けていたのに」と言って騒ぎ出すことになるわけだが、それは「クリティカル・コード」に無頓着だということに尽きる。

ひょっとすると、「クリティカル・コード」に無頓着だということは、自分という「情報の入れ物」に無頓着だということなのかもしれない。確かに、自分がどういう「情報の入れ物」なのか、正確に把握することは実は難しい。たとえば、わたしたちは学校にいるとき、教師の情報を無条件に受け入れる「情報の入れ物」となり、会社にいるとき、上司のや取引先の情報を無条件に受け入れる「情報の入れ物」となって、その「入れ物」に外部が存在することを忘れてしまう。外部の存在を忘れると、その「情報の入れ物」の特徴に合った情報しか入ってこず、個人として重要な情報を発信することもない。学校や会社だけではない。ブログというのも一つの「情報の入れ物」だ。わたしたちはブログで自由に情報を発信しているように見えて、実はその大部分を「ブログ」という形式に規定されている。

『code6』にはそういった形式そのものを解体するという意図も含まれているが、どれだけ意味のあることなのか、よくわからない。形式は「情報の入れ物」そのものの使われ方によっていつも変化しているからだ。たとえば、Twitterは140文字以内でどうでもいいことを呟き合うコミュニケーション・サービスだったが、イラン騒乱では市民が政府当局の目を逃れて情報を発信するためのプラットフォームとなった。イラン政府は海外メディアの活動を大きく制限しており、イラン国内の人々が現状を世界に伝えるためにはTwitterのようなリアルタイム・メディアを使うしかなかったのだ。そういった使われ方はこれから増えていくものと思われる。一方で、どうでもいいことを呟き合うTwitterの「形式」も消えることはないだろう。ただ、「クリティカル・コード」を意識するきっかけにはなるかもしれない。

いずれにせよ、わたしたちは、常に無意味な情報と有意な情報との狭間にいるということが言えると思う。一方は自分の中に自然に流入し、何となく充足した気分に包まれるが、それ以上のことは何も起きない。また一方は、自分から獲得に動かなければ決して手に入れることができず、恐ろしく面倒な作業を経なければならないが、圧倒的な充実感を持っていて、ひょっとすると何かを変えられる可能性を秘めている。わたしは赤ん坊の目を見るときに、そういうことをよく考える。ベビーカーに乗った赤ん坊は外部の些細な変化に反応し、大きく手足を動かして、世界の情報を全身で受け止めている。彼らにとって、おそらく情報の受信も発信も、決して楽な作業ではない。たぶんすべてが「クリティカル・コード」なのだ。ある赤ん坊がわたしの目を見つめるとき、わたしはどういう情報を発信してやれるのだろうかと考え、何も発信することがないなどと絶望的な気分になったりする。

個人として生き残ろうとする人間の数だけ、「クリティカル・コード」の種類は存在する。街ですれ違っただけの赤ん坊とはもう会うことがない。だが、その赤ん坊が少年になったとき、少年にとっての「クリティカル・コード」とはどういうものなのか、聞いてみたいと思う。

924 雨の音と甲虫

プリウスの新型がものすごい売れ行きらしい。生産が追いつかず、中古車に定価以上の価格がついたりして、異常な盛り上がりを見せているようだ。車が売れているという話は聞かない。しかも、そもそもハイブリッドカーというのは高級車でも大衆車でもない、中途半端な存在だった。新しいOSが爆発的に売れることがないように、最新技術を駆使した車というのは敬遠される場合が多い。消費者は、メインストリームでない商品に対してまず距離を置き、それがメインストリームに移行した瞬間に一気になだれ込むからだ。もちろん、プリウスが10年前に示した未来に人々が追いついたということもあるだろうが、それにしても中古市場までもが沸騰するのは異常だ。「エコカー」がステータスになる時代が来たのかもしれないが、それだけではないような気がする。

「エコブーム」はこのところ沈静化するどころか更なる盛り上がりを見せている。テレビを見れば「エコポイント」とか「エコカー減税」とか「省エネ」みたいなCMばかりだし、書店はエコな建築やレストランやライフスタイルを紹介する本で溢れている。身近なところでは、一部の飲食店の割り箸が消え、繰り返し使用可能なプラスチック製の箸に置き換えられた。わたしはそのプラスチックの黒い箸に汚れがついていないか気になるのだが、今のところ汚れている箸は見たいことがない。消費者は「エコ」にも敏感だが、同時に衛生管理にもうるさいので、徹底して汚れを落とす自動洗浄機を導入している企業・店舗も多いらしい。つまり、ある程度の設備投資は必要だが、投資分はすぐに回収できるので、企業としては経済合理性があるということになるようだ。ただ、気になるのは、そういった経済合理的な設備投資が「エコ」活動の一環としてプロモートされていることである。

つまり、エコはバブルになりつつあるのではないかということだ。ただし、バブルは弾けて初めてバブルだったとわかるので、今のところこの状態がエコバブルであるかどうかわからない。しかし、頭に「エコ」とつけば何でもありという雰囲気があることは否めない。とりあえず「エコ」とつけばプロジェクトに予算がつき、メディア受けもよくて、消費者も食いついてくれるという構図は、たぶん製造業や飲食業に従事している人なら誰もが把握していることだ。もちろん、「環境にいいこと」は悪いことではないし、具体的に数字を示している商品・サービスについては、とりえあず地球環境の保全に貢献しているということを認めるべきだろう。当然のことながら、プロジェクトに携わった人は称賛されるべきで、非難されるべきではない。

ただし、消費者としてのわたしたちが「エコ」に貢献することになるかどうかは別問題だ。エコブーム、あるいはひょっとすると未来のエコバブルの本質は、企業が「エコ」な商品を次々と投入し消費者がそれを消費するという点にある。企業は「エコ」というフレームを作り、これを買うと地球環境の保全に貢献できますよとアナウンスして、消費者はそのフレームに飛び込むわけだ。つまり、消費者は決して「エコ」のフレームを作らない。そしてそのことが、「エコ」がバブル化する要因となるのだ。要するに、「エコ」というフレームが市場から消えた瞬間に、消費者は「エコ」を実践する手段を持たなくなる。消費者が既存の「エコ」フレームに飽きて、「エコ」商品が出回らなくなると、「エコ」とは何だったのか思い出すことすら困難になるだろう。

マイバッグとかマイ箸といったものが流行っているが、どうしてそれが「エコ」なのか、正確に説明できる人は少ない。そもそも、「エコ」が根本のところで参照する地球環境悪化のシナリオは、科学的にそれほど正しいというわけではないらしい。たとえば、CO2の過剰排出で温暖化が進行し海面が数十センチ上昇するといったシナリオは、数ある「説」の中でも最悪の場合のシミュレーションで、現実になる可能性はかなり薄いようだ。もちろん、わたしはそのような「説」を支持して「エコ」を実践するという人を否定しない。そういった人は「エコ」な商品が出回らなくなっても自分で考えて行動することができると思われるからだ。しかし、なんとなく「エコ」というフレームがあるからといってそれに飛びつく人は、おそらくブームが終わったら「エコ」には見向きもしなくなるだろう。

知人にマイバッグを使う理由を聞いてみると、「エコ」というよりもレジ袋がかさばるからだと言っていたが、正直なところだろうと思う。そういった合理性の中にいる人は何ら問題がないような気がする。問題なのは、非合理性を無視して無根拠に「エコ」を消費し続ける人々だ。実態のない空虚な「買い漁り」は、前世紀のバブル経済と今世紀のITバブルの狂乱を彷彿とさせ、こんなことを考えてもしょうがないと思うが、「エコ」がバブルになるという可能性について考えてしまう。しょうがないと思うのは、バブルにならない可能性もあるからだが、いずれにせよ、できるだけバブルには関与したくないと思う。バブル経済の崩壊について考えてみればわかるが、バブルに関与した企業・消費者は、バブルが弾けた後に圧倒的な無力感と現実的な清算との間に挟まれて、集団神経症のような状態になってしまった。

繰り返しになるが、「エコ」とは消費のフレームのことで、消費者が主体的に地球環境に働きかけることとは異なる。主体的に地球環境に働きかけるためには生産者として「エコ」のフレームを作る必要があるが、10年後、20年後にもそのフレームが生き残るかどうかは、今のところ予想がつかない。たぶん、ある程度「エコブーム」が続いたあと、ほとんどのフレームが淘汰されて必要なものだけが残るのだろうが、どういうものが残るのかわからない。たとえば、ITバブルは既に終わったが、10年前にYouTubeのようなサービスが出てくることを予想できた人はいなかった。また、ITがバブル化することを予測し、できるだけ距離を取ろうとした人もほとんどいなかった。ほとんどの人がITバブルの熱狂の中にいたのである。

どうすれば「エコ」から距離を取ることができるのだろうか。考えられるのは、自分の欲望を明確にするということだ。今ここで息を吸うことすらも地球環境と関わりがあるとすれば、「エコ」の守備範囲はほとんど何でもありということになる。だから、「地球環境」に自分の欲望がどのように関わるのかを正確に知らなければ、おそらく「エコ」の熱狂の中に取り込まれることになるだろう。補足すると、この欲望にはたとえば地球環境を現在の水準のまま100年間持続させたい、といった壮大なものも含まれる。それは自分の欲望を直接的に充足させるものではないかもしれないが、地球環境の保全に関与したい、というのは確実に自分の欲望だ。地球環境の保全というだけでは漠然とし過ぎているが、それを自分の欲望として捉えれば、見通しは急に具体的になる。

横浜港にかかる巨大な桟橋のターミナルに「子どもたちのエコ宣言」という小さな展示があって、短冊形の細長い紙に子どもたちの様々な思いが書き込まれていた。ほとんどは「地球がいつまでもきれいな星でありますように」とか「ごみをできるだけ捨てないようにします」といったメディア的なメッセージだったのだが、その中で一つだけ「かぶとむしをいつまでもつかまえられますように」というメッセージがあって、面白かった。「森の甲虫を守りたいです」みたいな感じなら「エコ」らしいのだが、甲虫を捕まえるというのはそれ自体「エコ」っぽくないような気がする。だが、少年にとって、地球環境とのもっとも強い繋がりは甲虫のハンティングだったのだろう。つまり、地球環境に対する自分の欲望を率直に表明しているわけで、わたしは展示されている中ではもっとも優秀な「宣言」だろうと思う。

わたし自身にとってはどうだろうかと考えていると、雨が降ってきた。わたしのマンションのベランダから戸建ての屋根が見え、それが雨を打ち鳴らすのだが、わたしはいつもその音に聞き入る。雨は降り始めのころ、ぽつぽつと数ヶ所で音をたて始め、次第に音の数が増えていき、雨音が構成する音響が立体的になったと思ったところで、すべての音が混ざり合い、一つの濁流となって、区別がつかなくなる。しかし、音響全体を俯瞰するようにして神経を集中させると、濁流のような音が実は無数の雨粒によって構成されていることに気づくのだ。音源はフィールドのあらゆるポジションに数ミリという間隔でほとんど無限に存在していて、それらのすべてがたった二つの耳から進入してくる。そのダイナミズムにわたしは心打たれるのだが、それは「雨もいいものだな」と思っているわけではなく、10日ぶりに食事をするような感じで、わたしはその音に聞き入るのである。

それが真っ先に思いつく地球環境に対する欲望だが、わたしがわたしの欲望を獲得することと「エコ」との間には、おそらく何も関係がないと思われる。

923 すべりおちる情報

「婚活」に奔走する女性が増えているというのに、芸能界は(いつでも)結婚ラッシュである。ニュースサイトを見るたびに「○○、結婚」とか「○○、結婚へ」といった表記を目にするのは、たぶん気のせいではないだろう。大物芸能人が結婚すると、スポーツ新聞は一面トップでそのニュースを報じ、ワイドショーは執拗に同じ情報をアナウンスする。わたしはスポーツ新聞を読まないしワイドショーを見ないのでよくわからないのだが、どうして芸能人の結婚について知る必要があるのだろうか。たとえば、俳優としての能力・評価と結婚という事実にはまったく関連性がないが、時として結婚は本業の能力・評価よりも重大なこととして扱われる。また、若い女優や歌手が新製品のPRをやると「結婚はできるだけ早くしたいと思います」みたいなコメントが決まってニュース記事として出てくるが、うっとうしくて仕方がない。

たぶん、結婚は多くの人の注目を集めるので、結婚する芸能人としても自分のPRになるということがあるのだろう。現に、くだらない俳優や歌手や芸人ほど、仰々しく結婚記者会見のようなことをやってメディアの注目を集めようとする。だが、一方で、芸能人は自分の結婚を一般の人々に報告しなければならない、というコンセンサスがあるような気もする。芸能人は自分の結婚をメディアで大々的に知らせなければならない、という法律はどこにもないが、たとえば「○○、実は結婚していた」という報道は本人にとって確実にマイナスだ。一部の人は、そういう報道を目にすると「裏切られた」と感じることになるだろう。普通の人にとって、結婚を報告する義務があるのは親や親戚や親しい友人くらいだが、奇妙なことに、芸能人にはそれらと同等な存在として「一般大衆」というものが加わることになる。

一般大衆の目に常に晒されているのは政治家だ。政治家はどこに行って誰と会って何を話すか、といったすべてを監視されており、必要に応じて報告しなければならない。報告できない場合、「何か裏がある」ということになり、メディアは執拗に「取材」を繰り返すことになる。麻生首相は衆議院の解散を表明したが、このままでは選挙に勝てないと踏んだ党員たちがあからさまな「反麻生」運動を展開しており、政局は混沌としている。メディアは自民党員に逐一「取材」して政局の動きを明らかにしているわけだが、基本的に「反麻生」みたいなことは自民党内部の問題なので、それをいちいちわたしたちが知るべきなのか疑問だ。とはいえ、「いろいろ動きがあるようですが、党内で調整をしているようですので静かに見守りましょう」という空気にならないのは、おそらく自民党が信用されていないからだろう。

情報と信用とは互いに深く関わっている。政党や政治家の情報をすべて明らかにして公開すべきだ、という態度は、民主主義では当たり前の権利・義務だと思われがちだが、実はそうではない。もちろん、国家元首の動向が一ヶ月に数枚程度の写真でしか確認できない北朝鮮のような国では、そもそも政治家の詳細な情報を得ることができない。しかし、政治家は国民の代弁者にすぎないという民主主義国家においても、政治家の情報をすべて公開すべきだということにはならない。原則として、政治家が自分の職務を滞りなく遂行している場合、たとえば国会を後にしてからどこに飲みに行ったのか、ということを国民が知る必要はない。政治家を信用して任せておけばいいからだ。一方で、政党や政治家の動向が「監視」され、過剰なまでの情報がもたらされるとき、その政党や政治家は信用されていない。麻生首相が自民党の総裁に選ばれたころ、首相が毎晩のように高級なバーで飲んでいたことが問題になったが、考えてみると、麻生首相は最初からメディア・国民に信用されていなかったのかもしれない。

もちろん、情報が公開されること自体が悪いわけではない。ただ、情報の供給が過剰になり、需要がそれに追いつかなくなると、今度は受け手の側に怒りが芽生えることになる。わたしは芸能人の結婚報道に嫌気が差すことがあるし、「麻生下ろし」の過剰な報道によって、わたしたちは自民党そのものに怒りを覚えるのだ。ひょっとすると、わたしたちはどこかで、「勝手にやってくれ」と思っているのかもしれない。一度選挙で信用して選んでいるわけだから、いちいちわたしたちが監視しなくてもうまくやってほしいと思っているのかもしれない。情報が過剰に供給され滞留していくというのは、基本的にあまりいいことではないのだ。

個人ではどうだろうか。大阪市此花区のパチンコ店に放火した41歳の男は、「仕事も金もなく、人生に嫌気が差した」と供述したようだ。様々な職業を転々とした挙げ句に無職となり、約300万円の借金があったようだが、どうしてそれで放火しなくてはならないのかわからない。こういったニュースを見るたびに思うことだが、「仕事も金もなく、人生に嫌気が差した」というようなことを、犯行に及ぶ前に誰かに話すことはできなかったのだろうか。言うまでもなく、仕事がなく借金を抱えていて人生がうまくいかない、という人ならありふれている。しかし、問題は、ある種の社会性を喪失すると、そういうことがまったく見えなくなるということだ。それで、こんな目にあうのは自分だけだと思い込み、社会という漠然とした対象に怒りの矛先を向けることになる。要するに、「仕事も金もなく、人生に嫌気が差した」という言葉に代表される男の中の情報は行き場を失い、決壊して4人を死亡させる残虐な行為へと男を向かわせたことになる。

精神分析をしているのではない。あらゆるコンフリクトは人と人との情報の流れが滞留するところに発生するということだ。わたしたちは常に誰かから情報を受け取り、誰かに情報を受け渡しているが、その流れはいつも安定しているわけではない。受け取らなくてもいい情報を受け取ったり、受け取った情報に反応できなかったり、受け取ったことに気づかなかったり、過剰に受け渡したりほとんど受け渡さなかったりする。そうやってどこかに行き場を失った情報が滞留し、滞留したところに不満や怒りや失望が発生して、場合によっては互いにつぶし合うことになる。たとえば、夫婦が互いに愛情を交換している間はつつがない結婚生活を送ることができるが、夫が不倫して妻への愛情が途切れると、妻の愛情は行き場を失って滞留し、場合によっては離婚に至るわけだ。つまり、何でもかんでも情報公開すればすべてがうまくいくとは限らないということになる。公開された情報には必ず受け手が必要で、受け手には受け取れる情報と受け取れない情報とがそれぞれ存在する。

個人の中に圧倒的な量の情報が滞留する病気がパラノイアだ。パラノイアは偏執病とも呼ばれるが、その特徴は他人に対する徹底的な不信にある。他人から何の情報ももたらされていないのに、パラノイアの人は勝手に妄想を膨らませ、自分の中に滞留させていくのである。代表的なのは悪意の訪問者と国家的陰謀だ。前者は老人に多いようだが、たとえば天井裏から上階の住人が自分の部屋に忍び込んでくるというもので、もちろん訪問者は実在しないが、本人の目には訪問者の姿が鮮明に映し出される。また、後者はたとえば自分は国家的陰謀に関わってしまい命を狙われていて、夕刊の社説欄はすべて政府から自分への暗号になっている、みたいなものだ。いずれにせよ、重要なのはその内容ではなく、ベースに他人への不信があるということだ。パラノイアに共通しているのは、他人を信用しておらず、しかもあらゆる意味で社会から孤立しているということだろう。

つまり、重要な情報は社会から一切受け渡されることがないが、パラノイアは社会がそれを自分に隠しているだけなのだと信じて疑わない。そして、隠蔽された情報を「見抜いた」うえで自分の中に滞留させるのである。誰かに話しても受け合ってもらえないし、そもそも破綻しているために他人はその情報を受け取ろうとしない。パラノイアは治りにくい病気だと言われているが、ひどい場合には言語が崩壊することがあるらしい。まず主語が消え、文章から脈略がなくなって、最後には言語の体をなさなくなり、情報は言葉からすべりおちる。要するに、社会との直接的なコンフリクトを発生させず、行き場を失った情報を自我の死という形で回収するわけだ。

今の日本にはパラノイアックな気分が蔓延しているような気がする。組織・個人を問わず信用がなく、「一般大衆」は過剰なまでの情報公開を要求し、情報が開示されないと自分で妄想を始めて、怒りは社会に出て行くことなくブログやSNSという墓場に「回収」される。やっかいなのは、情報公開は大前提としていいことだと思っている人が多く、信用よりも情報公開のほうが大事だと思っている人がさらに多いことだ。まずは信用関係を構築し、それが破綻したときに情報公開を求めるというのが基本的なあり方だと思われるが、現在の日本における組織・個人の関係は、最初から破綻しているのかもしれない。

922 目の前の充実と幸福

気温が30度を超え、体中に毛虫がまとわりついているような嫌な気候だが、都内は東京都議会議員選挙の真っ只中である。衆議院の解散総選挙を控え、自民党陣営に「惜敗」が見込まれることもあって、選挙報道は異様な盛り上がりを見せている。政権交代が実現する可能性が高く、週刊誌などは既に総選挙後の政局について様々に予想して見せているが、一方で自民党側は恥も外聞もなく「勝てる」候補の擁立に躍起になっていて、報道のネタには事欠かないだろう。この夏は選挙報道一色になり、たとえば臓器移植法案のような重要な問題はどうでもいいこととして忘れられてしまうのかもしれない。いずれにせよ、炎天下で汗だくになって唾を飛ばす中年男を毎日テレビで見るのは、あまり気分のいいものではない。

今回の選挙のキーワードは「幸福」になるのではないかと、個人的に勝手に思っている。「幸福」をキーワードにした政党が都議選と衆院選に参加するからというわけではないが、ほとんど死後になりかかっている「幸福」という言葉をニュースで見るたびに、違和感を覚えながらも、何か重要な意味が含まれているのではないかと思い始めた。もちろん、幸福を信仰すべきだというわけではないし、反対に、幸福を放棄して別の何かを探すべきだというわけでもない。当然のことながら、幸福という言葉のつく政党が今回の選挙で重要な役割を果たすと思っているわけでも、その逆でもない。

幸福とはどういうことを指すのかよくわからないということだ。たとえば、「幸福」を辞書で引くと《不自由や不満もなく、心が満ち足りていること》とあるが、さっぱりわからない。少なくとも、《心が満ち足りていること》は自分で主体的に判断するしかないから、幸福とは個人の精神的な状態を表すバロメーターの一種ということになる。だが、バロメーターである以上、それは極めて具体的に設定されていなければならないのではないか。つまり、個人の中に設定された「幸福」というバロメーターは、既に「幸福」とは別の言葉に置き換えられているのではないだろうか。たとえば、わたしにとっての幸福とあなたにとっての幸福は違うだろうし、理論的には個人の数だけ幸福の種類は存在することになる。ある人はご飯を食べてその日を生き延びれば幸福かもしれないが、ある人は毎日ミシュランの三つ星のレストランに通っていても不満かもしれない。また、発展途上国の総体としての幸福と、先進国の総体としての幸福は明らかに違う。

つまり、幸福はごく個人的な精神の状態であるにもかかわらず、様々な差異を総合して作られた言葉だということになる。考えてみると、自分が幸福かどうかを確認するためには、実は他人との比較が必要だ。たとえば、結婚を人生最大の幸福とする女性は未だに多いが、互いに愛し合っているから幸福というような単純なものではないようだ。結婚の幸福度は、夫の年収や顔立ちのよさ、また披露宴の場所や費用などによってほとんど無意識のうちに比較される。さらに「うちの夫は結婚して10年経っても優しい」「うちの夫は40代初頭にして役員に昇進した」などと、結婚後のバロメーターは次々と追加されることになる。要するに、幸福を判断するのは個人だが、判断のための材料は個人が吸収した社会的な情報なのだ。逆に、社会から切り離された人間には幸福という概念は必要ないかもしれない。たとえば無人島にたった一人で生きている人間には、たぶん幸福というバロメーターが存在しない。そこには生理的欲求の発露と充足があるだけだからだ。

また、個々人の幸福の差異が無視できるほど小さくなり、ある集団の幸福が規定できるようになると、その集団は画一で安定した発展を遂げることになる。おそらく、60年代から70年代にかけての日本はそのような状況にあった。日本全体の経済が潤って、誰もがテレビや洗濯機や冷蔵庫を買い求め、4人家族を作って、休日には家族で郊外の遊園地に出かける。当時の幸福のあり方というのはわかりやすかったし、幸福の種類が少ない場合、国家の運営は非常にやりやすいものになる。「その政策はわたしを幸福にしない」などと言い出す人がいないからだ。

現在の日本の、総体としての幸福とはどのようなものだろうか。考えつくだけでも、日本の幸福の種類は無数にある。どこに住むのが幸福かということを考えただけでも、たとえば郊外の一軒家に住みたいという人や都心のタワーマンションに住みたいという人がいるし、太陽光発電のパネルを搭載したエコハウスに住まなければ気が済まないという人もいる。一方で、とにかく屋根のある家に住めれば幸せだという人もいるし、ネットカフェがあれば何の不満もないという人もいる。働き手がいなくなり、老人が大半を占めるこの衰退国家では、おそらく個々人の幸福の差異は広がるばかりだろう。

そのような状況の中で、各政党がいかに国民の「幸福」を示すのかという点は重要である。もちろん、見るべきなのは「幸福」という言葉ではなく、各政党が示す具体的なバロメーターだ。各政党が個人の精神的な満足度を示す具体的なバロメーターを提示したとき、そのバロメーターは誰かの幸福にはなり得るかもしれないが、「そのバロメーターはわたしの幸福とは関係がない」というケースが必ず現れる。「この政策は国民のみなさんのために」などと言おうものなら、その政党は嘘つきだ。幸福の種類は無数にあってもはやその差異を埋めることはできない、という事実を無視しているからである。

ところで、「幸福」と「充実」は何が違うのだろうか。「充実」を例によって辞書から引用すると、《足りない点や欠陥がなく、十分に備わっていること》ということになるが、これもよくわからない。幸福も充実も「不足がない」という意味を含む点で一致しているものの、幸福と充実の使われ方は違う。たとえば、「宝くじが当たって幸福です」とは言うが、「宝くじが当たって充実しています」とは言わない。同様に、「プロジェクトは大変だけど、やりがいがあって充実しています」とは言うが、「プロジェクトは大変だけど、やりがいがあって幸福です」というのは変だ。つまり、「不足がない」という点では同じだが、「何に対して」という部分が異なるのだ。幸福は自分という容器そのものが満たされる感じだが、充実は自分の立てた目標・戦略が実行され、そのプロセスがうまくいくというニュアンスがある。したがって、幸福は行為の出発点が不明で、受動的な部分があり、牧歌的な感じだが、充実は行為の出発点が自分であるために能動的で、緊迫感とシリアスさを内包している。

いずれにせよ、充実は幸福に先立つものだろうと思う。たとえば、充実感を得たあとで、それを懐古して幸福感に浸るということはあるが、幸福感を得たあとでそれを懐古して充実感に浸るということはあり得ない。また、充実は常に主体的な行為に端を発しているため、受動的な精神の満足度の計測に先行して獲得される。つまり、いつも充実している人は、幸福について考えたり幸福を獲得しようとしたりしないのかもしれない。

友人と話していて幸福についての話題になったことがある。非常に優秀な友人なのだが、幸福というのはよくわからない、と言って、わたしも幸福というものがよくわからなかったので、おれたちは不幸なのかと落ち込んだりしたのだが、今考えてみると、わたしはともかく、少なくとも友人は充実していたのだろうと思う。幸福になりたいとか、幸福でありたいというのは、考えてみると不健康だ。幸福には必ず個人的で具体的なバロメーターが伴っていなければならないし、そういったバロメーターを設定できるのであれば、既に主体的に行動を始めて、充実を獲得しているはずだからだ。目の前の充実を獲得し続ける人には、幸福も総選挙もマニフェストも必要ないのかもしれない。

921 ここにいない他者

世界同時不況にともなって日本経済も下降局面を辿り、都市に目立った変化が見られなくなってきた。たとえば、09年5月の新設住宅着工戸数は6ヶ月連続で減少して6万2805戸で、前年比30.8%減となった。ローカルな話題で恐縮だが、横浜・みなとみらい21では08年11月以来少なくとも4件の大型開発が中止・延期になり、雑草の生えた広大な土地が店晒しになっている。みなとみらい地区は都市計画の性格上、すべての建物が超高層かつ大規模建築なので、計画が中止・延期になるとものすごい規模の空地が出現することになり、その影響は顕著だ。

要するに、新しい建物が建たなくなったということなのだが、わたしたちにどういう影響があるのだろうか。まず、建設業に携わる人たちにとっては仕事が減るというダイレクトな影響がある。ある建設関係者は、ひょっとすると今こそ新しい建築計画を打ち出すべきなのかもしれないが、時流が読めないのでほとんどギャンブルのようなものだ、と言っていた。たとえば、超高層マンションの建設には計画4年、施工2年という時間がかかるらしい。つまり、完成するのは6年後だということだ。現時点での経済状況を鑑みれば新規の計画を打つのは困難だが、6年後の需要を見込むなら今やらなければならない、ということになる。逆に言えば、現時点で中止・延期になっている大規模な建築計画は4年以上前のものだ。そこでダイレクトに影響を受けるのはゼネコンの担当者や現場の職人たちということになる。

一般の人たちの場合はどうだろうか。考えられるのは、ライフスタイルが変化せず単調になることだ。良くも悪くも、都市はそこに住む人のライフスタイルを規定する。たとえば、朝起きてエレベーターで1階まで下り、大通りを歩いて駅まで行き、そこから2時間かけて勤務先の駅まで行って、駅前のロータリーでバスに乗って会社のあるテナントビルまで行き、回転扉をくぐって社員証をゲートに通し、高層階専用のエレベーターに乗って自分のオフィスに向かう、といった一連の行動は、すべて都市というハードウェアに依存している。つまり、自己決定とか相互作用などではなく、単純に建築に規定されているということだ。この規定は思いのほか大きい。日本の国土は行政によって完全に区分けされており、公道と私有地が分割されて、それぞれの境界には明確な線が引かれている。この線の内側に置かれるものを「建築」と呼ぶなら、少なくとも都市部では建築から逃れることはできず、わたしたちは建築に沿って生きていることになる。

だから、都市において建築に変化が見られないということは、それに寄り添うようにして生きるわたしたちのライフスタイルもあまり変化しないということだ。もちろん、それは良いことではないが、単純に悪いというわけでもない。そもそも日本の建築はほどんど飽和状態だからだ。戦後復興期の焼け野原に次々と新しい建物が建ち、それに会わせて人々のライフスタイルが劇的に変化したという事態と比べれば、わたしたちが置かれている時代の変化は大したものではない。たとえば、六本木ヒルズや東京ミッドタウンができてからもまったくライフスタイルが変わらないという東京都民はいくらでもいる。また、地方都市の駅前は再開発され、大型のデパートや家電量販店が建ち並んでいるが、そういった再開発は人々のライフスタイルを変えるというよりもむしろ平準化した。要するに、都市の停滞において大事なことは、わたしたちのライフスタイルがいかに変化するかということではなく、いかに変化しないかということなのだ。

建築というハードウェアが変化しないとしたら、わたしたちはソフトウェアに相当する部分を変化させるしかない。もちろん、都市のソフトウェアとは人間だ。さらに具体化すれば、人間がどのように関係するか、ということである。たとえば、朝起きてエレベーターで1階まで下り、常駐のコンシェルジュに挨拶をし、大通りを歩いて駅まで行く途中で会社の同僚と会い、そこから勤務先までの2時間を使って同僚の人生相談を聞き、会社に向かうバスの中で背中を押してくる女に苛立ち、会社の前で上司と会って一緒にゲートをくぐり、高層階専用のエレベーターの中で気になっていた女の子に会ってどきどきしながら自分のオフィスに向かう、といった一連の行動は、ベースの部分を都市というハードウェアに依存しながらも、人間と交わるソフトウェアの部分はぎりぎりのところで本人の意思に委ねられている。都市が変化を止めれば、当然のことながらこのソフトウェアの部分が際立ってくるが、実際のところ、どの程度まで意識されるのか、わたしにはよくわからない。

ソフトウェアの変化が最大になるのは、ある個人が絶対に交わらないだろうと思われる人間と関係したときだ。すぐに思いつくのは物理的に離れた人同士の関係である。たとえば、東京にいるわたしとブラジルにいる少年Aは物理的に離れており、交流のきっかけもないので、おそらく関係することはないだろうと思われる。だが、絶対に交わらないだろうと思われる人はそれだけではない。そういう人は、案外身近にいるものだ。たとえば、あなたがマンションに住んでいるとしたら、隣の住人はどうだろうか。特に独身用の賃貸マンションや都心の大型マンションでは、案外会う機会がないかもしれない。

現代の集合住宅の特徴として、外部からの接触はもちろん、内部の住人同士の関係も希薄だということがある。外部に対しては二重三重のセキュリティで完全にブロックされているが、内部の住人同士もできるだけ顔を合わさなくて済むように工夫されているところがある。町内会のようなものもないので、会う機会もない。だが、それゆえに、たとえばタワーマンションに住む人々は非常に多様だ。信じられないような金持ちもいるし、ローンで低層階に住んでいる人もおり、主婦やひきこもりや薬物中毒者や呪術師など、ありとあらゆる人がいる。基本的にこれらの人々は互いに交わることがない。建築というハードウェアが行動を規定しているからだが、会おうと思えば会えないことはない。彼らは薄い壁によって僅かに隔てられているだけで、空間的・時間的にはほぼ同じ場所にいる。

また、空間的には同じ場所にいるが、時間的にやや隔てられた関係というものがある。たとえば前に住んでいた住人や次に住むことになる住人だが、こういった人々も基本的に出会うことがない。住人と施工者との関係も同様だ。建築の施工者というのはゼネコンの職員や下請けの職人たちのことだが、彼らは住人と同じ場所に立ち、住人のための建物をつくっているにもかかわらず、完成と同時にその敷地を出ていき、住人とは決して交わることがない。当たり前といえば当たり前なのだが、関係する可能性は残されているのに、現状では絶対に交わらないだろうと思われる人々の顕著な例である。

繰り返しになるが、ソフトウェアの変化が最大になるのは、ある個人が絶対に交わらないだろうと思われる人間と関係したときだ。それはある個人にとって重大な転機となったり、大きな充実感を与えるものとなる可能性がある。直感では、都市が停滞し、建築が変化しなくなったときにそれが実感されるのではないかと思うのだが、現実にどうなるのかはよくわからない。

建設現場の監督として働いていた知人から聞いた印象的なエピソードがある。知人は戸建ての住宅をつくっていたのだが、何軒も何軒も同じような住宅をつくっていると、プラモデルをつくっているような気分になってくるらしい。だが、それでも充実感が降ってくることがあって、それは完成した住宅に人が住んでいるのを見たときだということだった。現場監督は原則的に家が完成したら現場を去り、住人と交わることはないのだが、たまたまその家の近くを通ったときに幸せそうに暮らす一家の姿が見えて、この仕事をやっていてよかったと思えるのだそうだ。都市のハードウェアとソフトウェアの関係をよく表していると思う。

920 fatal errors 01_07

「幸」という文字が浮かんでいる。それは紛れもなく「幸」なのだが、「幸」には見えない。というのも、「幸」は長い歴史の中で様々に変形されてきたからだ。変形したのはある種のシステムである。システムは「幸」を存続させるために試行錯誤を重ね、現在の「幸」を生成した。システムはそのプロセスを覚えている。だから、プロセスを逆に辿れば、オリジナルの「幸」を復元することもできるのだ。しかし、これらの画像を構成するコードには決定的なエラーがある。このエラーは謎に包まれている。システムの内部から発生したこのエラーは、システム自身も予測することができず、記録すら残っていないため、以前のデータは既に消失したようだ。したがって、「幸」という文字は永久に再現されないのである。

A Chinese character “Sachi” which means happy is floating. It is definitely “Sachi”, but we cannot recognize it as “Sachi”. That is because “Sachi” has been transformed in various ways over a long period of history. Something that has transformed “Sachi” is a kind of system. The system generated today’s “Sachi” to prolong its existence after a process of trial and error. The system remembers the process. That means it can restore to “Sachi”’s original state if it execute the process reversely. But there are some fatal errors in codes of these images. The errors are wrapped in mystery. Though the errors were generated within the system, the system could not expect its rise, does not have the log. So the data of “Sachi”’s original state seems to have already lost. Therefore, The character of “Sachi” will never be reappeared forever.

919 ICC Open Space 2009

ICCのオープンスペースが始まった。あいかわらずクオリティの高いメディア・アート群を体験できるが、浅野耕平の”Lines”や佐藤哲至+坂本洋一の”blank”は特にミニマルで美しい。”Lines”は小さな額の中の青空をごく小さな飛行機が横切っていく映像作品だが、機体から伸びる飛行機雲は、よく見ようとして作品に顔を近づけると途切れてしまう。つまり、作品を見るためには作品を見てはいけない。作品からある程度の距離を取れば飛行機雲は再び出てくるが、今度は映像が小さすぎて見ることができない。そのとき、ふと窓の外に目がいく(この反応は計算されている)。オペラシティの窓の外には本物の青い空が広がっているが、わたしたちはこのとき初めて、作品から開放され、青空を目撃するのである。また、”blank”は二本の水平なラインがスクリーンに映し出される作品だ。ラインは白をベースとしているが、そこに左右に動き回る黒い影が映し出される。それはおそらく人間なのだが、線状の影を見るだけでどうして人間だと判るのか、わたしたちは不思議に思うだろう。面白いのは、この作品が、最小限の情報を提示しつつも、わたしたちの知覚をきちんと喚起していることだ。情報の伝達にとって必要な部分とは何か、という問題を提起する重要な作品である。

もっとも興味深いのはラファエル・ロサノ=ヘメルの”Frequency and Volume”だ。展示室のモニターには白い光が投影されているだけだが、鑑賞者が中に入ると、映し出された影に呼応してテレビ・ラジオ・無線といった電波がリアルタイムで受信され、スピーカーから音声が出てくる。周波数や音量は鑑賞者の動きに応じて変化する。そのために、わたしたちは無数の電波の中で浮遊しているような感覚を得ることができるのである。この作品が優れているのは、電波の関係性という不可視なものを知覚させてくれるということもあるが、それ以前に、極めて生真面目なインタラクティブ・アートだからだ。この作品は鑑賞者が作品の前にいなければアートとして成立しない。だが、鑑賞者が展示室に足を踏み入れた瞬間、この作品は鑑賞者の知覚を支配し、鑑賞者の知覚そのものを表象する。つまり、初めからアートとしてそこにあるのではなく、鑑賞者が何かを知覚すること自体がアートなのである。

918 飢えについて

日常的な反復を抜け出して新しいものを作るためにはある種の飢えが必要だが、飢えの前提はまず欠落感だ。つまり、ある情報が絶対に自分には必要だが、今はそれがない、という認識である。しかし、成長するにつれ、そのような欠落感は次第に失われていく。たとえば、何も手に入れていない子どもはあらゆるものを欲しがるが、六〇にもなって「自分は何も手に入れていない」と感じる人は少ない。欠落感はそれに対応する情報によって埋められるか、別の欲望によって代替されることで放棄されるからだ。とはいえ、後者の場合、欠落感は消えてしまったわけではない。欠落感はあるが、それを埋めようとするモチベーションが生じないというだけである。つまり、欠落感は飢えの前提にはなるが、それ自体は主体をドライブさせるエネルギーにはならない。言い換えれば、欠落しているということと、それを埋めようとするモチベーションとは別なのだ。現に、「自分が自分でない気がする」という圧倒的な欠落感で病気になってしまう人もいる。それがエネルギーに転化するためには良質の燃料が必要だ。その燃料が、欠落感という機関を回転させ、目的地まで主体を運んでくれる。良質の燃料とは途方もないビジョン、あるいは子どもっぽい夢想にほかならない。子どもの夢想は可能性を限定することを知らないが、それは彼らが無知だからではなく、新しい存在だからだ。逆に、「バカなことを考えるなよ」などと言う人は、可能性をすべて既知のものに限定し、欠落感を自慰的なやり方で埋めるしかない。夢想は欠落感と呼応して、信じられないような場所にわたしたちを運んでくれる。それが「飢え」ということなのではないか。

917 poly stella

霞ヶ関ビルがリニューアルしたが、それに伴って、正面の広場にカールステン・ニコライの“poly stella”が設置されている。星を思わせる多面体の作品だが、一見複雑に見えるその多面体は、実は翼のような形をしたシンプルな四角錐が組み合わされることによって構成されている。カールステン・ニコライは次のように言う

本作品の形態は、複雑な多面体構造であり、自然界で成長する物体の形態をモデル化したものと言えます。作品は非常に多様に見えますが、単一のエレメントの集積で構成されています。シンプルな構成要素がたくさん集まると複雑なシステムとなる、ということの驚くべき実例と言えるでしょう。

面白いのは、四角錐の面が鏡のように反射することだ。組み合わされることによって非常に複雑な多面体となった”poly stella”の「面」は、周囲の様々なものを映し出している。行き交うサラリーマン、無機質なビルの表面、上品な並木、白いタイル、青い空、遠くの街並み、あるいは自分の姿といったものが映し出されるが、それらはあくまでもばらばらな破片として”poly stella”に写し取られている。もちろん、そこに写し取られたものは常に現実と同期しながら変化する。つまり、”poly stella”は、街をコラージュし、世界を一つの、しかし断片化された構造物として提示しているのである。

この作品が日本初の超高層ビルである霞ヶ関ビルに設置されたのは象徴的だ。霞ヶ関ビルはモダニズムを代表する典型的な箱形のビルだが、巨大な一つのシステムとしての霞ヶ関ビルは、”poly stella”の表面に完全な形で写し取られることがない。そこに映し出されるのは常にばらばらな破片としての霞ヶ関ビルなのである。霞ヶ関ビルのみならず、「モダニズム以後」のこの世界は、”poly stella”の中では常に断片化されている。ところが、”poly stella”をずっと眺めていると、そのような感覚のほうがむしろ自然であるように思えてくる。つまり、整った一つの全体であるかのようにふるまう目の前の景色よりも、”poly stella”の表面でばらばらになった世界のほうがリアルに思えるのだ。

916 ウェブに向かって溜息をつくな

ウェブはパブリックである。インターネットが「お手軽」に使えるようになって、緊張感を欠いた「お手軽」なコンテンツをウェブにアップロードする人が増えたが、そういった風潮は少し危険なのではないかと思う。もちろん、個人が作成したコンテンツを簡単にウェブに掲載できるのはいいことだ。だが、なんでもかんでも掲載していいということにはならない。ウェブの前提は全世界からアクセスできることであり、しかもアクセスした人はコンテンツを保存することができるので、原理的には掲載した瞬間にコンテンツは世界中に拡散する可能性がある。Winnyを媒介として広がった各種の「機密情報」と同様に、一度拡散すると回収するのは困難だ。したがって、ウェブに掲載するコンテンツは原則として拡散を許容できるものでなくてはならない。

ところが、そういう緊張感を持っている人は少ない。むしろウェブの言論空間は日常化し、通常ならば友達との雑談で話すような内容までウェブに上がってくる。特に目につくのが、ウェブに向かって溜息をつく人だ。「あ〜あ〜つまんないな(ふぅ……)」みたいなことだが、「お手軽」時代のコンテンツとして特徴的だ。問題なのは、溜息は一度つくと消えてなくなるものだが、ウェブに上げると半永久的に残るということだ。つまり、無数の溜息がコンテンツとしてウェブに滞留してくる。それを偶然目にした人が、見ず知らずの人の溜息を吹きかけられることになるのである。消えずに残った溜息の暴風は凄まじいものがある。たとえば、平野啓一郎は『決壊』の中で、その究極的なリスクを指摘している。

「検索してみたのだよ。──私とお前を結びつけたのは、その〈幸せ〉という言葉だ。」
良介は、怪訝そうに目を細めた。
「テクノロジーにも、悪魔の住処はある。私はネットで、世界の〈幸福〉な表情を一望して、殺されるべき人間を物色していた。そこで、お前の日記を見つけたのだよ。──そう、〈幸せ〉という語句から! お前を私に紹介したのは、グーグルだ。悪気はなかっただろうがね。」
男は、水に浮かんだ虹色の油のような薄ら笑いを見せた。
「《すぅのつぶやき》──ふん、貧弱な語感だ。しかし、読み入ったよ。恐ろしく興奮しながらね。これだ!と、まさにこの男だと確信して。──彼は、自らが執拗に拘り続けた〈幸せ〉という言葉のために、こうして悪魔を招き寄せる結果となった。ところがだ! 驚くべきことに、この男は少しも〈幸せ〉でない!」(『決壊』)

ここで指摘されているのは、ウェブによるプライバシーの暴露といったことではなく、むしろウェブに滞留した「溜息」の驚異的な効果である。親しい友人の前でついた溜息はすぐに消滅し、友人にとってもおそらく大した負担にはならないが、ウェブというパブリックに投げ出された溜息は違う。それは間接的に見ず知らずの誰かのストレスとなるのだ。そしてその誰かも、またウェブに向かって溜息をつく。そのような連鎖が続いていけば、おそらく最初についた溜息は何倍にも増幅して自分に返ってくるだろう。それはウェブという恐ろしく記憶力のいいパブリックの、本質的な問題なのだ。

915 全面的な受容

何者かを信じるというとき、わたしたちは「信用」あるいは「信仰」をベースにして対象と契約を結ぶ。だが、それは契約がなければ他人との関係が成立しないということではない。契約的でない、全面的な受容といった事態は確かに存在する。それは対象に期待をかけず、利益の対象とすることもなく、静かに、しかし積極的に受容するということだ。それは《君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない(『道徳形而上学原論』)》という、カントの道徳法則と一致している。しかし、特に「信仰」が裏切られ、「信仰」していた対象を破壊したくなるような衝動に駆られるとき、わたしたちは対象を決して全面的に受容してなかったことを悟る。つまり、そのとき初めて、対象と契約関係にあったということを知るのである。

914 信用/信仰

誰かを信じるというとき、わたしたちはその対象に「期待」している。「あなたを信じています」というとき、わたしたちはその対象が何らかの成果を出すことを「期待」するのだ。それは具体的な形で対象からわたしたちに向かって支払われなければならない。たとえば、親から信じられている受験生はいい学校に合格しなければならないし、恋人から信じられている男は浮気をしてはならない。そこでは、たとえ意識されていないにせよ、契約関係が存在する。信じる主体は対象に向けて「期待」という債券を発行し、信じられる対象は「期待」という負債を背負うのである。もちろん、「期待」は具体的な金銭として現れることもあるだろう。たとえば、親は受験生への期待を教育費という具体的な金銭として支払う。

だが、そのような契約関係の形態には少なくとも二種類ある。一つは信用だ。信用は互いに自立しているような二者の間でのみ成立し、「期待」が不履行になった場合は契約は単に破棄される。もう一つは信仰だ。信仰は互いに依存関係にある二者の間で成立し、「期待」への裏切りは背信という形で現れ、契約の破棄と同時に処罰される。二種類の契約関係の違いは「どれだけ信じているか」ということではない。「期待」がそもそも自分の利益のためのものであることをわかっているのか否か、ということだ。「期待」をかけるということは最初から相手が何かを支払うことを想定しているわけだが、「信じる」という語感はそのことを隠蔽してしまう。

だから、人を信じるのは自由だが、それが反故にされたとき、「信じていたのに」といって泥沼の関係に陥ったり、殴ったり殺したりするのはあまり合理的ではない。もう利益が得られないことは分かっているのだから、さっさと「期待」を引き揚げればいいのである。それができない場合、関係は既に「信仰」の段階にあったと言うべきだろう。自分を信じる(自信)というときも同様だ。自分自身が「期待」していた何かを実現できなかったとき、「こんなはずじゃないはずだ」といって自暴自棄になったり鬱になったりする必要はない。その「自分」からはもう利益を得られないのだから、さっさと引き揚げて「自分」の未知の部分に「期待」すればいいのだ。そうでなければ、失敗した自分は徹底的に処罰され、最後には跡形もなく消滅してしまうだろう。

913 消失点

マーク・グラノベッターの言う「弱い絆」、つまり他者にもっとも多く出会う可能性がある場所は東京駅であった。むろん、これは他者へのアクセス時間が最短になるというだけであって、そこにいれば次々と他者に出会えるというわけではない。他者との交通はあいかわらず閉じられている。しかし、東京というシステムの中心と、他者に出会うというきわめて反=システム的な行為の中心が同じ場所にあるというのは、皮肉なことだ。通常、Xに対して反=Xを形成するとき、わたしたちはXからできるだけ遠ざかろうとする。すなわち反戦を形成する者は戦争から遠ざかり、反共を形成する者は共産主義から遠ざかり、反=システムを形成する者はシステムから遠ざかろうとするわけだが、実は、それらが互いに重なり合うときにこそ消失は生じるのである。とはいえ、これは反=Xという思考が霧散してしまうことを意味するのではない。思考する場所は別のところにある。

912 どこに住むべきかという問い

わたしたちは必然的にある「場所」に住んでいる。今あなたがどんな場所にいるにせよ、それが一つの「場所」であることには変わりがない。しかし、その場所がわたしたちの目的や生き方にとって必然であるかどうかは、検証してみる必要がある。たとえば、リチャード・フロリダは、グローバル化が進んだ現在においても、住む場所の選択は重要な意味を持っていると指摘する。都市は世界的な広がりを見せているが、それは均一に広がっているのではなく、むしろ特定の都市に集積化する形で広がっているという。その中心はメガ都市(Mega-Region)である。メガ都市とは都市が拡大し他の都市と合体してできた新しい経済圏であって、その範囲は行政が定めた境界線を優に越えていく。メガ都市にはあらゆる高度な生産体制が備わっており、それゆえに多くの才能と巨大な資本が集積する。とはいえ、だからといって、すべての人がメガ都市に住むべきだということにはならない。メガ地域に住むことができる人は決まっているのだ。

最上位に来る地域は、下位の地域よりも生産性が高く、ものごとが処理されるスピードも速く、生活コストも否応なくかかる。トップの地域にとどまる能力のある人々は、高度に専門化された業界で高い生産性を上げながら働くことがいっそう要求される(ロンドンの投資ファンドやロサンゼルスの映画製作がその典型だ)。その反面、たとえば売れないアーティストや一般人などは、最上位地域では経済的な居場所がなくなってくる。集積化による地域の選別は、必然的に人の選別でもあるのだ。(リチャード・フロリダ『クリエイティブ都市論』)

つまり、高度な生産性を上げる人でなければ、メガ都市に住むことはできない。あるいは、住むことはできるが、非常に苦しい生活を迫られる。そういった人々は、コストのかからない都市の周縁に移住することになるだろう。そのような二分化が、ますます「場所」を重要なものにしている、というわけだ。場所(都市)の本質はそこに集まる人間である。考えてみると、人間に会うことなく仕事や生活ができる、という人は限られている。デジタルデータはほぼリアルタイムで世界中に送ることができるが、人間の移動には未だに多くの時間がかかり、結局のところ、それがわたしたちの住む場所を規定するのだ。交通機関の発達によって住む場所にこだわる必要はなくなる、という反論は間違っている。交通機関が発達するのは、メガ都市の内部、あるいはメガ都市とメガ都市の間に限られるからだ。たとえば、品川 ‐ 名古屋 ‐ 大阪間を結ぶ中央新幹線の完成によってもたらされるのは、首都圏へのアクセス向上などではない。それは東京 ‐ 名古屋 ‐ 大阪というメガ都市の誕生を意味するのだ。「田舎」はますますメガ都市から切り離され、ほとんど往来のない「交通機関」はむしろ衰退する。

とはいえ、住む場所について意識的な人がどれだけいるのかよくわからない。リチャード・フロリダの分析によれば、世界一のメガ都市は東京なのだが、東京に住みたいという希望が日本人の中にどれだけあるのか、少し疑問ではある。おそらく、本人の希望にかかわらず、入学や就職を経て成り行きでそこに住んでいるというケースがほとんどなのではないか。もちろん、結果的にそうなったからといって、東京に住んでいる人がすべて幸福でそれ以外の地域に住む人がすべて不幸だというわけではない。そもそも、どこに住むべきかという問いは不毛だ。住む場所にはその人の仕事や人間関係や生活すべてが関係する。つまり、この問いはどのように生きるべきか、という問いに付随してのみ生じるのだ。単に相対的に有利な場所である、というだけで住む場所を変える人はいない。しかし、人生を根本的に変化させなければならないようなとき、おそらく手っ取り早いのは住む場所を変えることだろう。その際、わたしたちは正確な指針を持たなければならない。

住む場所にとってもっとも大事なのは、その場所からどのような人・物・場所にアクセスすることができるのか、という点だ。たとえば、リチャード・フロリダは前掲書の中で、マーク・グラノベッターの「弱い絆の強さ(The strength of weak ties)」について言及している。マーク・グラノベッターによると、個人の発展にとって重要なのは、親友や家族といった「強い絆」ではなく、むしろ単なる知り合いであるような「弱い絆」である。《では弱い絆の利点とは何なのだろうか。それは私たちに新鮮な情報をもたらすことである(前掲書)》。つまり、自分と多くの情報を共有しているような「身内」よりも、まったく未知の情報をもたらしてくれる「他者」にアクセスするほうが、一般に人生は刺激的なものになる。

そのような「弱い絆」に瞬時にアクセスできるような場所は、ベストな居住地のうちの一つといってもいいのではないかと思う。もちろん、ほとんどの人の日常生活は「強い絆」へのアクセスで構成されるし、日常生活の基盤は職場という「場所」に規定されるから、すべての人がそのような居住地に住むことができるわけではない。だが、「強い絆」や職場からある程度自由であるならば、理想的な居住地はたぶん東京駅だ。東京駅は東京というメガ都市の中心にあって、東京の内部へのアクセスはもちろん、外部へのアクセスも最速である。したがって、東京駅はもっとも多くの「弱い絆」と出会える可能性のある場所だということができる。

911 情報統合手段としての議論

いい議論は、新しい情報の積み重ねによって初めて成立する。ある議題があるとき、その議題に対して反応(response)し、さらに反応に対して反応し、またその反応に対して反応する……という過程が議論なのだが、結果として導かれる最後の反応は議題に対してある種の解を示していなくてはならない。この解は突然現れるのではなく、反応の結果としてのみ現れる。つまり、議論においては、反応の連鎖というその過程そのものが重要なのだ。とはいえ、単に反応するだけだったら会話と何ら変わるところがない。議論が単なる会話と区別されるのは、そこに新しい情報が次々と付加されるからだ。この新しい情報こそが、議題から解へのジャンプを可能にする。つまり、議題に参加者の情報が加算されることによって、個人ではとても生成できないような高度な情報の集合体ができあがるというわけである。そう考えれば、議論とは人間の能力の限界を補う画期的な情報統合手段であると言えるだろう。ここでは、コミュニケーションが得意であるかどうかは実は重要ではない。重要なことは、参加者が議題に反応するための情報を持っていることだ。情報を持っていればその情報を加算して情報の統合に貢献することができるが、情報がなければ実質的には何もすることがない。その場合、参加者の反応は追認か非難、あるいは無反応のいずれかに流れてしまう。ウェブはそういった情報のない反応で溢れているが、ひょっとするとそれは議題すら設定できていないことに原因があるのかもしれない。つまり、最初から何の情報もないのである。

910 自分が消えるX

どうしようもなく自分自身であるような時があり、一方で自分などどこにもいないような気分になる時がある。いずれの場合も、わたしはすべてから切り離され、孤立している。

自分が消えることは基本的にはいいことだ。世界はほとんど無限の情報で満ちているのに、わたしたちが知覚できるのはほとんど無であるようなわずかなボリュームでしかなく、そのほかのすべて(世界)は自分という矮小なフィルターによって排除される。だから、少なくとも、より広い世界を知覚しようと望む者にとって、自分が消えることはいいことなのだ。しかし、前述した二種類の「気分」は、そのような自分の消え方とは少し異なるようだ。世界に向かって開くような自分の消え方はあくまでも世界との「再会」として現れるのであって、「孤立」とは無縁である。だが、前述した二種類のケースでは、わたしは絶望的に自分自身であるか、あるいは絶望的に自分自身でない。要するに、きわめて統合失調症的であって、資本主義的なのだ。資本主義では、人間同士のあらゆる交通が禁止された上で、規定のシステムに沿って円滑な生産 ‐ 消費生活が営まれる。このシステムの上では、わたしたち(諸因子)は互いに交換可能であり、取り替えのきく存在だ。したがって、自分などどこにもいない。しかし、一方で、わたしたちはシステムから排除されないように、別の因子との差異を常に意識し、拡大しようと試みる。だから、わたしたちは常に自分自身であるとも言える。つまり、絶望的に自分自身である、あるいは絶望的に自分自身でない、ということは、実は一つの現象について語っているにすぎないのだ。

自分が消え、目の前に世界が展開するようなXは、そのようなものとは異なる。むしろ、そういった状態を脱したときに初めて、自分が消えるXが現れるといってもいい。

909 out of the city

都市を出る。だが、都市の外側など、実際にはどこにも存在しない。わたしたちは分業体制の欠片として生きており、それゆえにいつも都市とリンクしているからだ。田舎に行って畑を耕せば都市から出られるわけではない。だから、わたしはささやかな抵抗として都市の外側という想像の中に逃避し、生産性や合理性など霞んでしまうような場所に身を置いて、そこで思考する。そこでしか、都市を巨大な全体として見ることはできない。きっとそれは生きる/呼吸するということと同義なのだ。そしてわたしはまた都市に戻るのである。

908 代表者を決定する「わたし」

代表者は圧倒的な他者である。しかし、たとえばわたしにとってあなたが他者ならば、あなたにとってもわたしは他者であることになり、結局のところ他者の他者性は相対的なものでしかなくなる。言い換えるなら、わたしがあなたを代表者だと言うとき、同時にあなたもわたしのことを代表者とみなしているということである。つまり、代表者を判定するところの「わたし」が明らかにならなければ、代表者は決定できないのだ。その場合、「わたし」はごく普通の者でなければならない。とすれば、「わたし」はアベレージ=平均でなければならないのだろうか? あるいはスタンダード=標準? いずれにせよ、「わたし」は圧倒的に観察者でなければならない。

907 スーパーハイビジョンと崇高

Y150で遅ればせながらスーパーハイビジョンと22.2マルチチャンネル音響システムを体験したが、これはリアルとは決定的に違う。このシステムが再現する映像と音声は現実を要約し人間が知覚可能な形式で表象するという「表現」の枠組みを超えており、どこを見ていいのかわからない。したがって「表現」には向かないし、これを使ってリアルさを「表現」するのは困難だろう。しかし、人間の知覚を圧倒し制圧してしまうような崇高を出現させることはできる。たとえば、池田亮司が出現させる崇高のように、現実をはるかに上回る精細な表象作品を制作することは可能だ。もちろん、そのような作品を構成できる作家の登場を待たねばならないが。

906 リアルさについて

リアルであることは精細であることとは実は異なる。リアルであることとはベンヤミンの言うアウラ、あるいは最近の流行で言えばクオリアを感じることだが、それは現にそこにあるとしか思えない「体験」をすることであって、映像的・音響的な再現性を得ることとは違う。むしろ、映像的・音響的な再現性を欠いているほうがリアルである場合もある。というのも、リアルさは対象そのものにあるのではなく、自分の持っている情報でアウラを補おうとする主体の能動性から生じるからだ。たとえば、高精度のCGで再現された怪獣よりも着ぐるみの怪獣のほうがリアルに感じることがあるが、それは着ぐるみのほうが再現性に優れているからではない。着ぐるみの怪獣はアウラの要点だけを表象し、あとは主体の想像力に委ねる。不思議なことに、そのことが逆にリアルさを生むのだ。おそらく、そこにはわたしたちの知覚の特徴が関係している。わたしたちの知覚の性能はわたしたちが考えているよりもはるかに低い。たとえば、ある一瞬の景色の中でわたしたちが認識できる対象はせいぜい一つか二つにすぎない。一方で、わたしたちは記憶を高度に操作しながら、そういった脆弱な知覚を補っている。たとえば、前に見た対象を無視し、新しい対象だけを知覚するというように。リアルさはこの操作の中にあるのだ。したがって、リアルさの表象とは、そのような記憶の操作を促進するようなものでなくてはならない。

905 エコ・ファシズム

横浜で開催されている開国博Y150が中心に掲げるテーマは「エコ」だが、出展企業による「エコ」のアピールは凄まじいものがあって、ここまでくるとファシズムではないかと思えてくる。もちろん、「エコ」というテーマを掲げること自体が悪いわけではない。しかし、「地球にやさしく」することを人類全体の大前提的な使命であるかのように喧伝し、反論は一切受け付けないというような各企業のスタンスには違和感を覚える。会場に集まった小さな子どもたちは出展企業のPRビデオをおとなしく見ていた。だが、そういう光景に違和感があるのは、各企業が主張する「エコ」の結論がもれなく「自社の製品を買ってください」ということだからだ。否、わたしたちは必ず「地球にやさしく」しなければならないのだから、「エコ」に繋がる各企業の製品を絶対に「買わねばならない」。これがファシズムだというのは、そういう製品を買わない人々が殲滅されつつあるからだ。

近代化という大目標を達成し、ITバブルを終えた先進国が次なる大目標として設定したのが「エコ」であることは周知の事実である。しかもこれは単なる国家的目標にとどまらず、全人類的目標だ。したがって、このコンセプトに反論、あるいは単に検証しようとする人でさえも、「反社会的」だと言われるようになる。わたしたちのミッションは「エコ」な商品を買うことだ。地球にやさしくない商品は社会から排除されなければならないし、そういう商品を買う人は殲滅される。たぶん、この状況は目標が達成されるまで続くだろう。とはいえ、やはり出展企業のPRビデオに見入る子どもたちの姿は「異様」だった。その異様さは、エコ・ファシズムの研究材料の一つとして検証されるべきだろう。

904 『龍宮城』

ノンフィクションライターの小野登志郎氏の新刊が出た。あらかじめ断っておかねばならないが、氏とわたしは「顔見知り」である。しかし、そのことを差し引いても、これは読むべき本だと思う。歌舞伎町を舞台にしたこの作品は、中国人マフィアやヤクザ、あるいは中国残留孤児を中心とした「怒羅権(ドラゴン)」なる組織/ネットワークの実態を、綿密なインタビューを基に構成し、表象したものである。この本が扱うテーマは決して明るいものではない。むしろ、一般的に、それらは「日本の闇」とか「歌舞伎町に落ちる影」などと言われる。にもかかわらず、わたしはこれを明るい本だと思った。ダークな事象について書かれてあるのに、読んだあとに少しだけ元気になるのだ。

たぶん、それは表層しか知りえなかった中国人マフィアたちの文脈が少しだけ明らかになるからだろう。小野氏はマフィアとの徹底的な対話という手段を取ることにより、彼らの文脈への接近を試みている。そのことが、「怖い」「危険」「ヤバい」などの曖昧模糊としたイメージしかなかった彼らの「生」を生き生きと立ち上がらせているのである。とはいえ、それは「彼らも同じ人間なんだ」などということではない。むしろ、彼らは圧倒的に他者である。だが、読み進めていくうちに、わたしたちは彼らがあるシンプルな原則に従って生きていることに気づく。「何があっても絶対に生き延びる」という原則だ。この強力な原則は、彼らをドライブさせ、エネルギーとなって、様々な形で社会に表出させる。メディアで報道される(時に暴力的な)事件は、そのエネルギーが表現された一つの形であるにすぎない。

そういうエネルギーは日本のどこを探してもほとんど見あたらない。労働者はますます洗練された形でシステムに組み込まれ、ブログに「愚痴」を書いてエネルギーを発散させている。だから、エネルギーは電子の闇の中に沈んでいき、外には出てこない。一方で、中国人マフィアたちは、エネルギーを素直に他人に向ける。そのことがわたしたちを元気にするのかもしれない。

903 楽しい作業/苦しい作業

ある作業に楽しい/苦しいという感情の表れしかないならば、その作業にはそもそも「喜び」が存在しない。「エネルギーを消耗しくたくたになるがとにかく充実している」という状態は、ある作業の「喜び」を表現する唯一の反応だが、それは創造の喜びである。一方で、単に楽しいとか苦しいという感情は、その作業が何ら創造的でなく、積極的な意味を持たないことを示している。言い換えるなら、そのような作業は「違う」のだ。

902 遺書としてのブログ

言葉は常に無限の生成としてわたしの外部にある。したがってわたしの外部が生成を続け、それをわたしが観察し続ける限り、言葉は尽きることがない。もちろん、主に文字によって構成されるブログもその生成とともにある。ブログを毎日更新する人は多いが、そこに現れる言葉の束は、その人がその日観察した外部の姿なのである。言葉がその人の「内面」にあって、隠された内面が少しだけ「告白」されたというわけではない。ブログを見てもその人の「内面」などわからない。たとえば、芸能人が自殺するとよく「最後に更新されたブログ」が紹介されるが、その人がどういう気持ちでその記事を書いたのか誰にもわからない。ほとんど冗談で書いたのかもしれないし、酔っぱらって自嘲気味に書いたのかもしれないし、まったく別の人格を想定して書いたのかもしれない。いずれにせよ、その記事は外部に対するその人の「反応」として書かれたのだ。つまり、その記事が示しているのは、自殺した当人の姿ではなく、世界=わたしたちのほうなのである。死ぬ前の人間が観察した最後の世界。そういう意味では、ブログは遺書として機能するのかもしれない。

901 公共空間の消滅

日本の公共空間の様相が少しずつ変わっているような気がする。少し前まで、路上とか電車内に「ウンコ座り」する若者がメディアに取り上げられ、それが公共空間の「プライベート化」の象徴として報じられていた。つまり家でやるべきことを外でやっているということだが、そういう若者も最近ではそれほど見なくなった。むろん、彼らはいなくなったわけではない。しかし、公共空間をプライベート化できるのが限られた一部の若者であることは確かなことだ。一九歳が「ウンコ座り」するのは恰好いいことなのかもしれないが、三〇にもなって「ウンコ座り」する人はいない。それははっきりと恥ずかしいことだし、どうして恥ずかしいのかといえば、それが子どもっぽい「反抗」の形だからである。だから、「ウンコ座り」する若者は年齢を重ねるとともに最適化され、姿を消す。むしろ、日本の公共空間はそのようにプライベート化されるのではなく、単に消滅しようとしているように思える。歩きながら延々と携帯電話を打ち続ける女子大生、電車の中でゲームに熱中する少年、滞りなく人々が行き来する街路などという現象は、「ウンコ座り」などより遙かに強烈な効果を生んでいる。彼ら/彼女らは公共空間でコミュニケーションするわけではなく、公共空間をプライベート化しようとしているのでもない。公共空間にいながら自己の中に引きこもっているのだ。それは「孤立した労働者たちの群れ」という都市の本質的なシステムを完成させ、結果的に偶発的なコミュニケーションの場としての公共空間を消滅させるのである。

900 「これはアートである」

これはアートである、という宣言は正しく、同時に間違っている。アートは形式の中にしかない。だから、デュシャンがしたように、これはアートであると宣言し、アートそのものの輪郭を立ち現せることは理にかなっている。だが、たとえばわたしが示す文字は、ある人にとっては単に不快な記号の束でしかないかもしれない。カントが指摘したように、美は対象ではなくそれを見る者の中にあるのだ。

899 何も所有しないこと

精神的にも物質的にも何も所有しないこと。自由とは何かを所有することではなく、何かを所有する権利を持つことでもなく、それらの間を移動し、混沌とした他者に出会うことである。

898 代表者とは誰か

表象において、ある範囲に生きる人々の代表者を見極めるのは重要なプロセスである。たとえば、わたしが今「日本人」について語るとしよう。「日本人は勤勉で、気が弱くて、人とのコミュニケーションをあまり好まないが、内に秘めた自意識のようなものは確かにあって、それが世界的にもまれな投稿数を誇る日記系ブログに現れている」などと言えば、わたしたちは必然的に一つの人格を想定せざるをえなくなってくる。今わたしが語った「日本人像」は確かにある種の日本人の姿を表現しているかもしれないが、すべての日本人がそうであるというわけではない。つまり、(それが適当かどうかは別にして)わたしは日本人の中から特に代表的な人格を選んで編集し、文字情報として提出したことになる。だが、それが正しいかどうか、どうやって検証したらいいのだろうか。たとえば、森達也は『東京スタンピード』という小説の中で、アベレージ=平均とスタンダード=標準について考察している。

「何が、と言いますと?」
「僕を観察する理由です。普通って何が?」
「何がというか伊沢さん自身です。あなたの中の特定の部分ということではなくて、伊沢さん自身の様々な属性や環境、肉体的特徴や器質、性格など、測定できるあらゆるデータを統合すると、あなたはとても典型的な日本人なのです。もちろん伊沢さん以上にもっと平均的なデータを保持する人はいるかもしれませんが、少なくとも今、私どもの調査対象の中では、伊沢さんが圧倒的にアベレージを体現しているのです」(『東京スタンピード』)

つまり、代表者を選出するとき、様々なデータの平均値を示す人間を選べばわかりやすい。ところが、アベレージ=平均は計算上は存在するが、実際の人格としては存在しないはずである。いわばそれはバーチャルに存在し、わたしたちの世界から決定的に切り離されている。しかも、平均値というのは基本的には過去のデータに基づくものであり、根本的に現在を体現していない。そこで、スタンダード=標準という考え方が出てくる。

「僕が平均だからですか」
「平均は私です。伊沢さんは標準です」
「平均と標準の違いがわらない」
「平均は多くの量や数の中間値。標準は普通のあり方であると同時に目指すべき規格という意味もあります。アベレージとスタンダードの違いです」
「僕はアベレージじゃないんですか。以前加藤さんにそう言われましたよ」
「この二つの差はとても微妙です。変数の置き方でどちらにでもなる。加藤はまだ結論を出しかねているが、私はあなたを平均ではなく標準だと考えます。だから伊沢さんの身辺で何かが起きることは予測がついた。あなたを観察する理由はそもそもそこにあったのです。ところが加藤は予測しながら干渉しようとしない。確かに観察対象への干渉は基本的には研究者にとってタブーです。特にあなたが平均値なら、干渉は大きな影響を与えます。でももし標準値なら、その干渉をもあなたは取り込むはずです。いずれにせよ最悪の場合は伊沢さんの命にかかわる事態です。ならば科学者の前に人間として干渉せざるを得ない。わたしはそう考えます。そこまで怜悧にはなれない」(同前)

過去を体現するアベレージ=平均に対し、スタンダード=標準は未来を体現する。つまり、「これからの日本人はこうあるべきである」というようなモデルであり、それゆえに現在の世界を牽引していく。森達也が描いたスタンダード=標準の主人公は、東京に広がる暴動の中でひとり非暴力の道を模索しており、確かに「こうあるべきである」というようなモデルになりえる人格である。だが、危険なのは、そのような人物を日本の代表者と断定してしまうことだ。「これからの日本人はこうあるべきである」というモデルを作るためには、不可避的に日本に関するイデオロギー的な分析が必要になる。「現在の日本はこうなっていて、ここがおかしいから、未来の日本はこうなるべきだ」というマクロ的な分析が必要なのだ。それは必然的にイデオロギッシュになる。つまり、現に存在する一つの人格ではなく、観念的・思想的な概念としての人格を作り上げることになるのである。

そこには、個々の人格の差異を無視し、多様な系を一括りにしてしまうという危険性が潜んでいる。複雑な人間のディテールを剥ぎ取って扱いやすい因子に分解し、その集合として単一のシステムを構成するというそのプロセスは、まさにわたしたちが否定しなければならない無機質なシステムによるものだ。むろん、代表者とはそのようなものではない。表象における代表者は現実に存在する人格でなければならないのだ。それは、現実に存在する人格だけが、無機質なシステムに対抗しうるある種の表情を持っているからである。そのような人格は、アベレージ=平均やスタンダード=標準と違って捉えどころがない。というのも、代表者は、メディアが喧伝する「典型的」な人物像からずれているからだ。しかし、メディアが取り上げないそのような人格こそが、まだ開示されていない豊富なディテールと表情を持っている。だから、そういう人格に触れるとき、わたしたちは「こういう人っているなあ」などとは思わない。むしろ、代表者は圧倒的に他者なのである。

897 都市への接近

ジャン=リュック・ナンシーは次のように言っている。

いっしょに(アヴェック)、そばに(オープレ・ドゥ)の働き、似かよったところのない人びとの隣接あるいは集まり、場所と機能の近接が、所属を明らかにするものもなく、凝集力も象徴的圧力もなく、表象における高揚もないままにする。

おそらく、だから必要なものとしてイメージがある。ニューヨークはNY、ビッグ・アップルと自称し、ノトは《シチリア・バロックの真珠》と呼ばれることを好む。それに対して、アレクサンドリア、北京、サンクトペテルスブルグは、過去の華やかさを沈殿させたアウラをおろそかにはしていないし、パリも同様にフランスの大都市の石でできた図像でコンコルド広場を取り巻いている。だが、こうしたイメージは絵葉書のものだ。ローマはサン・ピエトロ広場、セビリアはジラルダの塔、リオデジャネイロはポン・ジ・アスカールの残丘というように。絵葉書は人の身元の証明写真と同じで都市の身元の証明にあたる。無表情で薄っぺらで、ポートレートの反対、情報処理的な意味でのインデックスないしアイコンの一種であり、認知のための記号だが、存在感も出会いもない。

都市、そこでは出会いがあり、都市そのものに出会う。だが、人との、個別化され、確かに輪郭のある誰かとの出会いではない。印象と模索、躊躇と類推によって通り過ぎることである。実を言うと、それは終わりのない接近であって、会うはずの場所は移動していく。たぶん、人もそうなのだ。(『遠くの都市』)

人は都市に無限の接近を試みるが、いくら試みたところで、実体のある何かに出会うことはない。そもそもそれは「イメージ」にすぎないからだ。無機質な超高層ビルとスクランブル交差点の雑踏という東京のイメージは、実はどこにも実在しない。したがって、そのイメージの中にいる人々も、実際には存在しないのである。たとえば、超高層ビルに一つの窓があり、その中に人が見える。スクランブル交差点の中心に一人の男が立っている。だが、それらの人々は実在しない。わたしたちがいると思い込んでいるだけなのだ。彼らはそこにいるのだと、わたしたちは交通と接触なしに思い込む。それは根本的な問題なのだ。

896 アンインストール

ひとたびコードがインストールされると、それをアンインストールするのは困難である。あなたの精神の基盤はそのコードの上に置かれ、そのコードがなければ存在すら危ういものになる。というのも、システムのコードにはすべて労働が関わっているからだ。コードをアンインストールするということには、「失職する」ということ以上の意味が含まれている。失職したうえにもう二度と労働に戻れない状態になること、コードのアンインストールにはそういう意味が含まれているのだ。したがって、コードを変更するためには「上書き」するしかない。それによりあなたの精神の基盤は変更されるが、コードの内部にいるという点で、状況は変わらない。あなたを取り巻く世界は自動的に推移し、あなたが望むものはすべて与えられるだろう。それに抵抗することはできないが、あなたを排除しようとする者もいない。たぶん、インストールが不充分であるような人々にとって、あなたは羨望の的だろう。だが、そういうのはつまらない。

895 インストール

システムを把握すれば、そこで生きていくのは簡単だ。そこで生きている人々のコードを把握し、それを自分にインストールすれば、ほとんど無意識に動くことができる。そのイメージは次のようなものだ。すべてが自動的に推移し、あなたは遠くからそれを操作しているような気分に囚われる。現実感がなく世界との間に壁がある、というわけではない。そういう現実感のなさは「葛藤」している間のみ現れるもので、コードがインストールされた現在ではもはや存在しない。むしろ世界はミニチュアであって、あなたの頭の中にある。だから、あなたはそこで何が起こるかすべて把握しているし、次に起こることもわかっている。だから生活は楽だ。リラックスしているというより根本的に無気力なので頭も力も使わない。言い換えれば、あなたはシステムの一因子になったのである。そのコードを使用する限り、あなたの言葉に突然起こり出すような人は現れないし、情報はきわめて効率的に伝達される。だが、一方で、ぴりぴりするようなコミュニケーションもない。

894 開、閉、開

目も眩むような閃光があなたを襲い、あなたはその光を集束させながら急降下して地上を掠める。だがまた新たな閃光があなたを襲うこと。

893 文脈を伴った情報

個人が発する情報で重要なのは、文脈を伴った情報である。個人が運営するブログは無数に存在するが、評論とか趣味のブログを除けば、残るのは個人の日記をひたすら掲載したブログだ。日記を掲載するのはかまわないのだが、たいていの場合、それらは自分と少数の友人がわかるようにしか書かれていないので、意味不明なことが多い。意味不明だということは、その情報には価値がないということだ。たとえば、わたしが今ここで「疲れた」と告白しても意味がない。「疲れた」人など無数にいるからだ。友人でも知り合いでもないウェブの向こうの人間にそれを告白されるということは、無数の呟きのうちの一つを聞くことに等しい。つまり、「疲れた」という告白には何ら特殊性がなく、情報として価値がないことになる。

ところが、仮にわたしが丸の内の大企業に勤める二八歳のOLで、社内のミスコンテストで優勝するほどの美人で、自宅は汐留の超高層マンションにあって、音楽の利権を整理する仕事をしているのでしょっちゅうニューヨークやロンドンに飛んで忙しい毎日を過ごしているが、そういうのは全部ミクシィで知り合った男に話した嘘で、本当は浦和の小さな町工場で働く六五歳の清掃員のおばさんだったら、「疲れた」という告白にも価値が出るかもしれない。そういう人が「疲れた」のだという情報は、ある種のオーラを纏っているからだ。オーラの正体は文脈である。その人がどういう人生を歩んできて、どんなことを考え、現在どういう状況にいるのかといった情報は、「疲れた」という平凡な情報にディテールを与え、結果として「疲れた」という情報の価値を上げる可能性がある。

だが、そのためには充分な情報の開示が必要だ。匿名で何の説明もなく「疲れた」とだけ書いても、不特定多数の読者はその情報に価値を見出せない。とはいえ、労働者は自分の情報を開示することを制限されている。開示したくても開示できない情報が膨大にあって、開示できるものの区別がつかないので、とりあえずすべてのディテールを封印するわけだ。セキュリティとかプライバシーと称して、そのような情報の封鎖が進行している。したがって、労働者は「自分自身」に関する重要な情報を発信することができない。だから、労働者がいくら「自分自身」を表現しようとしても、それは単に平凡な「わたし」を示すだけで、何ら刺激のない情報になる。

しかし、ウェブで発信すべき情報はそれだけではない

892 自分の特殊性を疑うこと

自分が発した情報、あるいは生産したものの価値を知るためには、まず自分の特殊性を疑ってみなければならない。「わたしはこれを作るのにこんなに苦労したのだし、こんなに苦労しているのはわたしだけだから、きっとわたしの仕事には価値があるのだろう」という近視眼的な態度は、制作の過程では有効かもしれないが、出来上がった生産物の価値を冷静に判断する場合は有効ではない。「こんなことをやっているのはわたしだけだ」と言うのは簡単だが、実際にはほとんどの人が同じようなことを思っているのだ。それは「わたしはわたしに価値があると思う、ゆえにわたしには価値がある」というデカルトの悪用のような論法によって成立しており、「自分」の特殊性は少しも疑われない。しかし、問題は、人間の活動には現にほとんど差異が存在しないことである。あなたがやっているようなことは、あなたの隣の人も、その隣の人も、さらにその隣の人もやっているのだ。それが労働のシステムなのであって、活動の内容はごく短い方程式によって定義することができる。つまり、あなたには特殊性がない。しかし、一方で、特殊性は存在する。それは方程式では記述できないようなディテールに宿っているのだが、「自分は特殊である」というような思い込みがある人には、そういう情報が見えてこない。

891 言葉は無限である

素材としての文字は有限である。わたしたちは現に流通している文字を使用しなければならないし、より多くの人間と情報をやりとりすることを考慮すれば、素材としての文字はシンプルで学びやすいほうがよい。だが、文字の組み合わせ方には様々な段階がある。大きく分ければ、まず模倣の段階である。子どもや外国人がやるように、わたしたちはまず流通している日本語を観察し、それを正確に模倣しようとする。小さな子どもは意味などわからなくても親が口にした言葉を反復するが、それは学習の過程だ。この過程は思いのほか長い。たとえば、小学生や中学生が教師に「意見」するときも、そこで発される言葉は実は親とかマンガとか小説の模倣であることが多い。彼/彼女独自の言葉が生成されるようになるのは、彼/彼女が充分な情報を自分の中に蓄積した後だ。そこで次のフェーズとして、自己表現の段階がある。これは彼/彼女が自分の中に蓄積された情報を吐き出す段階であって、主に二〇歳前後で現れてくる。そこで生成される言葉は常に「わたし」に関することであり、「わたし」の歴史に関することだ。したがって、主語はいつも「わたし」である。この時点で、わたしたちはそれぞれ独自の文字の組み合わせ方を確立する。それは自由に「わたし」を表象するためのコードだが、同時に表現を「わたし」の範囲内に制限する。もちろん、この段階はその後も続き、基本的には彼/彼女が死ぬまで持続する。ところが、実は次の段階が存在するのである。それは外部を表象する段階だ。ここで、わたしたちは「わたし」という表現の主体を放棄する。代わりに表現の主体となるのは他者である。「わたし」ではない誰か、あるいは何かに憑依して、わたしたちは文字を組み合わせるようになる。そこで文字の組み合わせ方は刷新され、わたしたちは別のコードの下に置かれることになる。つまり、「わたし」という枠組みが解体されることで、それまでは不可能だった言葉が生まれるのである。だから、他者がいる限り、そして新しい他者が常に生成されている限り、言葉は無限だ。むろん、それは「他人の気持ちになる」などということではない。他者の情報と自分の想像力を駆使して世界に着地するのである。詩でも小説でもエッセイでも論文でも、それは同じことだ。

890 文字のリズム

歴史に規定された「文法」が存在し、他方では素材の組み合わせ方はまったく自由であるという点で、音の生成と文字の生成は似ている。文字のリズムとはどのようなものだろうか?

889 脱力した生き方

「この時代に気合いなんか入れたら破綻するぞ」とわたしが言うと、Sは苦笑いした。日本では、苦しいときには根性とか気合いを入れればよい、という風潮が未だに残っているが、今そういうことを言っているのは古くさいオジサンだけだ。根性とか気合いといったものは「がんばる」という言葉と非常に似ていて、とりあえずやるべきことが決まっているケースでしか有効に機能しない。言い換えれば、新しいことを創造しなければならない時には無意味なのだ。スポーツでもアートでもビジネスでも、新しいことを創造するときには実はリラックスして脱力しなければならない。というのも、創造は意識と呼ばれる領域ではなく、無意識の領域から導かれるものだからだ。たとえば、ユングは詩の創造について次のように言っている。

この活動にあっては、詩人は創造のプロセスそのものにほかならず、自ら進んでこの創造行為の先端に立ったのか、それとも創造のプロセスの方が作者を道具として完全に捕らえてしまい、本人はまったくその事実を意識しなくなってしまったのかは、関係ありません。作者は創造的形成そのものであって、持てる意図と能力の一切を挙げて、分かちがたく形成のただ中に身を置いているのです。(ユング『創造する無意識』)

わたしたちは「意識的に」創造のための素材を収集し、必要であればそれらに科学的な分析を加えなればならないが、実際に創造する作業においては、意識=主体の役割はほとんどない。したがって、わたしたちにできるのは力を抜いて「形成のただ中に身を置」くこと以外にないのである。しかし、それが実は「集中する」ということなのだ。集中は、意識=主体という限定的な領域を使用することを止め、無意識という巨大な領域を使用することだといってよい。一方、気合いを入れるというのは意識に回帰するということだから、そこで可能なのは、単純作業とか「忍耐」を必要とする作業とか、創造的でない作業だけだ。

もちろん、別の生き方を探すのは無意識の仕事である。

888 外側の情報だけが

外側の情報だけがわたしたちを自由にする。

887 外部との対話としてのブログ

ブログの存在意義の一つは、常に更新することが求められるという点かもしれない。もちろん、情報がなければ何も書くことはできないが、常に情報のインプット/アウトプットが必要であるという点で、いい訓練にはなる。書くべきことは自分の内側に溜まっているわけではない。文字はサイボーグや宇宙人と同じ、一つの他者だから、わたしたちは決して交わることのできない彼らと接触を試み、衝突し、対話するのである。そういう意味で、この訓練は「自分の記憶の引き出しを開ける訓練」なのではなく、「外部との対話の訓練」なのだ。当たり前のことだが、提出された文字には「自分」が含まれている必要などない。

886 「がんばる」の中身

「がんばる」とは奇妙な言葉だ。通常よりも奮起して努力する、というニュアンスが含まれているが、同時に、「がんばる」が包含する意味内容は話し手と聞き手の間でシェアされていなければならない。たとえば、親が受験勉強する子どもに「がんばりなさいよ」というとき、その内容は「勉強していい学校に入りなさいよ」ということだ。それは親と子の間で当然のこととしてシェアされている。というのも、受験勉強をする子どもの前には「勉強していい学校に入る」という一本の道だけしかないからだ。一方、受験に失敗した子どもに「まあ、がんばりなさい」と声をかけるとしよう。この場合の「がんばる」はどういう意味を含んでいるのか。おそらく、子どもは「がんばる」の意味内容がわからず混乱するだろう。既に「受験していい学校に入る」という道は行き詰まっているわけで、子どもは別の道を探し出して生きていかなければならないが、「がんばる」はそういう意味内容を含んでいない。

「もう一度受験する」「受験の不要な学校に入る」「学校に入ることを諦めて働く」「留学して専門技術を身につける」「とりえあず旅に出る」「出家する」など、選択肢は無数にあるわけだが、「がんばる」には「あなたには今まで歩んできた道以外に無数に選択肢があって、どれも平坦な道ではないが、あなたにとってベストだと思う道を選んでそれがうまくいくように努力しなさい」というニュアンスはない。したがって、「がんばる」主体のやるべきことが自ずから明らかでないと、「がんばる」という言葉は使えないことになる。その点で、「がんばる」という言葉は基本的に学校教育のためのものだ。選択肢が無数にあって解決策が一つではないとき、やるべきことは「がんばる」ことではなく、それぞれの選択肢を科学的に分析することである。本当に重要なのは「がんばる」ことで解決できない問題なのだ。

885 孤独を確保する

何かを生み出すために必要なものを一つだけ挙げるとすれば、それは「孤独」ということに尽きるのではないかと思う。孤独は一人でいることだが、世界から隔絶されているわけではないという点で「孤立」から区別される。孤立とは、世界から切り離され、思考することも許されず、暗い独房の中に収容されることである。一方、孤独は、世界との関わりをひとまず括弧に入れておくことだ。そこでわたしたちは、図らずももう一人の自分と対話することになる。その対話は通常、思考と呼ばれている。そのような対話ののち、わたしたちは括弧を開き、世界との関わりを回復して、そこで生み出した何かを外部に提出するのである。それは別に難しいことではなく、誰でもやっていることだ。外部とのコミュニケーションそのものが人生であるような人でも、孤独な瞬間がなければ、その人独自の何かを提出することはできない。たとえば、いくら外交のうまい総理大臣でも、孤独になって自分の政策を考えることがなければ何の成果も残すことはできないだろう。

そういう意味では、孤独を解消するために誰かとコミュニケーションを取る、というような態度は実は間違っていることになる。孤独において何も生み出さずに孤独そのものを放棄するということは、何の手土産もないまま世界に復帰するということだからだ。そのようなコミュニケーションは空虚であるどころか、コミュニケーション自体を成立させない。逆に、孤独を有効に活用し、新しいものを生産し続けることができれば、外部とのコミュニケーションは豊かなものになるだろう。つまり、孤独は忌み嫌うべきものではなく、むしろ積極的に確保すべきものなのである。

884 池田亮司と崇高

東京都現代美術館で開催されている池田亮司のインスタレーション「+/-」には、[the infinite between 0 and 1]という副題がついている。0と1による無限、というわけだが、会場ではまさにそのような記号による無限の表象を目の当たりにし、圧倒される。わたしは池田亮司の音楽を聴いたことがあるし、ライブにも行ったことがあるが、氏のインスタレーションを体験するのは初めてのことだった。考えてみると、氏のライブは巨大なスクリーンと信じられないような高精度のスピーカーを駆使して行われる、いわばオーディオ=ビジュアル=ライブ的なものだ。それは確かにその場でしか体験できないアウラだが、同じソフトと機材を持っていけば、別の場所でもまったく同じものが再現できる。そういった意味では、池田亮司は実は根っからの美術家なのかもしれない。美術館に展示された「美術品」として氏の作品を眺めると、その圧倒的な存在感に驚かされる。壁のスクリーンに映し出される記号の洪水は、落ち着いてそれらを観察するというよりも、それらの前で唖然と立ちつくしてしまうような力を持っている。それは「崇高」の体験だ。展覧会の公式カタログで、浅田彰は次のように指摘している。

もちろん無限なものは表象できないけれど、それでも表象可能な無限を思考することはできる。そういうズレゆえに主観が揺り動かされるような衝撃が生ずるというわけです。それでいうと、無理に比較することもないけれど、たとえば近年の高谷史郎さんが複雑系としての自然の多様なゆらぎに触発された「美」の表現に向かっているのに対し、池田さんはまさしく数学的な「崇高」に向かって突き進んでいるように見えるんです。(東京都現代美術館『池田亮司 +/- [the infinite between 0 and 1]』)

たとえば、わたしたちは雷を見ると美しいと感じることがある。雷は人間を死に至らしめる巨大な力を持っているが、わたしたちが雷のメカニズムを知り、なおかつ安全な場所にいる場合に限り、わたしたちはそれを美しいと感じることができるのだ。池田亮司は0と1の世界においてそれを表象しているのである。わたしたちの脳がフリーズしてしまいかねない圧倒的な情報の洪水は、それが美術的な作品であり、スクリーンに映し出された映像にすぎないと知っている場合に限り、美しいと感じることができる。実は、それは非常に微妙なバランスによって成立しているのだ。池田亮司は次のように語っている。

ただ、ちょっと気をつけなきゃいけないと思っているのは、ずっと考えていくとほとんど哲学を飛び越えて神学に近くなっていくということです。そこまでいってしまうと、もう自分の信条の問題になってきてしまうので、少し居心地悪い部分もあるんですが、それでも「崇高」な体験本質は、そういった本当にギリギリの境界に立つことなんだ、ということだと思います。(同前)

畏怖を制御し、崇高な体験へと導くこと。「+/-」はそれが極めて現代的なテーマに沿って実現された希有なインスタレーションである。

883 通りすぎた街

日記みたいになってしまうが、三月は横浜のみなとみらい地区について詳細に調べる機会があったので、メモしておく。とはいえ、わたしは観光者としてみなとみらいを見たわけではない。観光者として都市を見るとき、わたしたちは都市を一つの商品とみなしている。言うまでもなく、それは「観光産業」という都市のごく限られた姿にすぎないし、言い換えるなら都市の表層にすぎない。そういう情報を入手するのは簡単だ。本屋の旅行本コーナーに行って「みなとみらい」の本を買い、その案内に沿って街を歩けば一通りのことはわかる。だが、それでは都市という商品を消費しているだけだから、都市の本質はわからないのだ。

では都市の本質とは何かというと、わたしにもわからない。ただ、都市が人間の基本的な生活形態である労働 ‐ 消費というサイクルを高度に組織化したシステムであるということは、歴史が教えてくれる。人間がこれほどまでに密集して住まなければならない理由は、商品の生産とその交換が効率的に行われなければならなかった、ということ以外にない。つまり、労働と消費のシステム、およびそこで活動する人間の総体が都市なのであって、マクロとミクロ、全体と部分の把握がなければ、都市を把握したことにはならない。

もちろん、そんなものをすべて把握するのは原理的には不可能だ。そこで稼働するシステムの系をすべて知り尽くし、そこに生きるすべての人間を調査しなければ、都市の全体像を「再現」することはできない。都市を形而上的に「再現」することは、都市の有効性と正当性を検討するために必要不可欠である。のちに詳しく述べるが、都市は労働者の分業体制を基盤としているために、その全体像を把握することが実は難しい。目につくのは高層ビルが作るスカイラインとか、観光者のために作られた歩道とか、そういう「風景」的なものばかりだが、それは都市の全体像ではない。都市の全体像を見るためには、分断された労働者たちを結ぶ「線」を発見しなければならない。

そのような「線」は、都市のシステムが作り出す「線」とはまったく違う軌跡を描き出す。都市のシステムは、労働者を分断し最大の生産効率を作り出すために最適化されている。労働者は孤立していなければならないし、自分の孤立に気づいてはならないし、孤立のうちに労働を全うしなければならない。だから、労働者の孤立を解消するような「線」は、基本的に都市のシステムに抗するものなのである。

そもそも、都市のシステムが稼働する仕組みは一通りではない。都市のコントロールという点で分類すれば、都市は計画/無計画という二種類に分けることができる。とはいえ、資本主義システムの下では、都市を作るもっとも基本的な要素は私有制と経済合理性であって、必然的にほとんどの都市は無計画都市となる。特定の集団が広大な土地にコントロールされた一つの都市を建設するということは、本来は社会主義的な政治体制がなければ実現しないのである。ところが、ある特殊な条件が揃った場合に限り、資本主義システムの下に計画都市が出現する場合がある。その場合に必要なのは手つかずの広大な土地と大企業による連合だが、みなとみらい地区はそういう条件が揃った希有な場所だった。

計画都市としてのみなとみらいが面白いのは、都市における資本主義的な要素が鳴りを潜めるどころか、きわめて洗練された形で現れていることだ。たとえば、都市に住む諸因子は徹底して切り離され、互いに交わることがない一方で、それぞれの因子には非常に快適な環境が与えられている。それは超高層ビルを基本とする都市計画に具体的に現れている。超高層ビルはまず入口で外部の人間の進入をシャットアウトし、さらに各フロアで異種の人間をシャットアウトする。しかし、シャットアウトされた先に待っているのは、その因子にとってもっとも快適な空間なのである。快適な空間は各因子が効率的な生産活動を行うのに有効なものであり、同時にシステム全体の効率化をももたらす。しかも、ビル全体は、私有地の利益を最大化するために超高層になるわけである。各因子は外部との交通のない閉鎖的な空間で自分の労働だけを行うので、結果として都市の分業体制は最大限にまで最適化されることになる。

みなとみらいでは、まるでSF映画のようなそういったイメージが都市として具現化されている。平日の昼にみなとみらいを訪れればわかるが、その昼間人口からは信じられないほど静かで、人気がない。目的の空間への「アクセス」が整備されるとともに、諸因子間の「交通」が遮断されているからだ。もちろん、そのような遮断は一見暴力的なものではなく、既に見たように、むしろ快適なものだ。ここには強制労働は存在しないが、一方で、それと同様の生産効率が実現されるわけである。つまり、みなとみらいは一つの究極的な労働のあり方を示している。それは計画都市と資本主義システムが「結婚」することによって生まれたものだ。

そういう都市を歓迎すべきなのかどうか、よくわからない。快適なのだからそれでいいのではないかという気もする。ただ、プログラムに一定のバグが存在するように、完璧なはずのシステムを揺さぶるアノマリー(変則性)は確かに存在する。アノマリーは具体的な思想を持った因子として現れ、システムの穴を発見し、そこを突きながら都市そのものを解体する。彼/彼女たちには悪意はないし、都市を解体してやろうなどという気概もないが、彼/彼女たちの行動が結果としてアノマリーを生むのである。その例として端的なのはスケートボーダーやストリートダンサーだ。ストリートを拠点とする彼/彼女らは、通常では発見することが困難な道路の機能を見出し、それを活用する。つまり、「アクセス」の機能しか持っていなかった道路で「交通」を見出すのである。それはストリートの上に、力強い「線」として抽象的に表現される。

とはいえ、みなとみらいはそもそもスケートボードやストリートダンスに不向きな街である。居住地区が限られている上に住居はすべて超高層マンションであり、観光地であるがゆえに当局の取り締まりが厳しい。計画都市だからこそ、警察や土地の管理者はアノマリーを嫌悪するものだ。計画都市において、「計画通りにいかない」というのは一番の恐怖である。計画が失敗すれば、その土地は急速にスラム化するからだ。ホームレスが住みつき、無許可の屋台が次々と商売を始め、麻薬の密売人が出入りするようになったら、もう手のつけようがない。だから、アノマリーは徹底的に排除されるのだ。

それでもアノマリーは生き続けている。重ねて断っておかねばならないが、別に彼ら/彼女らは都市を解体する使命を負っているわけではない。彼ら/彼女らは純粋にそれぞれのスポーツや表現を楽しんでいるだけだ。だが、そういう純粋さゆえに、その活動は都市を解体する原動力となる場合がある。わたしたちはそれを見なければならない。それを見るためには、効率的な都市を目指すシステムの視点ではなく、快適な空間の獲得を旨とする各因子の視点でもなく、それらからふと離れるような、いわば文学的な視点が必要だ。

みなとみらいを調べていく過程で、わたしはNさんというスケーターに会った。みなとみらいを拠点とする若いスケーターだったが、恐ろしくシャープで、落ち着いた雰囲気を持った人だった。それはわたしが勝手に想像していた「スケーター」のイメージとまったく違っていて、これはすごいことになるかもしれない、とわたしは思ったのだった。わたしは本当に都市が解体されてしまうかもしれない、と思ったのだ。実際に、Nさんは私有制と都市の問題について的確に指摘して見せ、住民とスケーターが和解するためのプランまで披露してくれた。対話はみなとみらいの中心部にあるお洒落なカフェで行われたのだが、「こういうところにはあまり来ないですね」と言って落ち着かない素振りを見せながら、スケーターの青年はきわめて知的な話を聞かせてくれた。

その話は、わたしが考えていた都市の解体のシナリオとぴったり一致していた。「どういう本を読んだの?」とわたしが聞くと、本はほとんど読みませんね、とNさんは答えた。彼は経験だけですべての解を導いていたのだ。彼がストリートで行き交う人々を眺めながら行った思索は、何百という思想書を凌駕するような内容だった。わたしは、わたしのシナリオとNさんの解が絶対的に正しい、と言いたいわけではない。ただ、思想史などを順番に勉強してやっとわかるような内容を、Nさんは経験的に身につけていた。そのことはおそらく、システムとアノマリーの関係性を象徴することになるだろう。

Nさんの話で印象的だったことがある。それはスケートボーダーは実は孤独だということだ。スケートボードは原則的に一人で滑るものだから、滑っている間は実は孤独で、Nさんはその間にいろいろなことを見て、考える。スケートボードからはただ通りすぎていく人の姿が見えるらしい。スケートボードさえあれば何時間でも楽しめるのに、ほとんどの人はその道をただ通りすぎる。それはとてももったいないことだ、とNさんは言った。

わたしがミクロとかマクロなどと言って難しく考えていることを、Nさんは軽やかに実行しているのではないかという気がする。誰もが通りすぎる街を、足を止めて徹底的に観察すること。それ以外に都市を詳細に見る方法はない。それを実行するのは骨が折れるが、「アノマリー」や「交通」を発見したとき、都市はそれまでとはまったく別の様相を見せ始め、無表情だった各因子の姿が喜怒哀楽を伴った人間の形として現れてくる。わたしはみなとみらいで、ささやかだがそういう別のビジョンを見ることができた。

みなとみらいを離れ、別の街を歩いているとき、わたしは自分が通りすぎた街について考えた。わたしが通りすぎた街は無数にあるが、それらのほとんどは表層しか知らない、つまり観光者の視点でしか見ることができなかった街である。わたしはそれらの街のアノマリーはおろか、システムの全体像についても把握していない。要するに、わたしはその街に確実に立っていたが、単に表情なきシステムの一因子として立っていたのである。考えてみると、たとえ何十年と住みついていても、単にそこに立っているだけだったら、それは通りすぎた街なのだ。都市では隣の部屋に住む人と顔を合わさなくても生きていけるし、わざわざ文化の違う人と会う必要もない。

わたしたちはすぐ近くにいるはずの人々について、何も知らない。

882 「その程度」の情報発信力

表現力は、その人そのもの価値と必ずしも一致しない。しかし、注意すべきなのは、表現力を駆使して情報を発信しなければ、その人は情報を処理していない(思考していない)とみなされることだ。「わたしはたくさんのことを知っている」と主張したところで、アウトプットがなければ誰も信じないし、「あの人はきっとこれくらい知っているだろう」という期待も、アウトプットがなければすぐに萎んでしまう。もちろん、自己顕示を勧めているわけではない。自己顕示とはビット数の少ない「自分自身」を晒してしまうことで、「その程度」の情報発信力ではどうしようもない。

881 『彼女について私が知っている二、三の事柄』再考

『彼女について私が知っている二、三の事柄』(一九六六)は、ゴダールが都市開発について描いた希有な作品だが、その情報量はあまりにも膨大であって、未だに分析を加えるに値する。この映画が取り扱う対象はパリ地域圏(イル=ド=フランス)の団地という局地的なものだが、そこに含まれた問題群は普遍性を持っている。そもそも、ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール誌に掲載された団地に関する調査と、それに対して寄せられた女性読者の手紙に着想を得たこの映画は、全体としてドキュメンタリーの雰囲気を持っている。女性読者の手紙は団地に住む四五歳の未婚の母親からのもので、生活費のために売春をせざるをえない事情を綴ったものだった。したがって、映画の基本的な構成は、この女性の団地での生活と売春を断片的に配置したものである。とはいえ、この女性は、団地における特異な存在として描かれているわけではない。売春は何ら劇的な演出を施されることなく、むしろ淡々と描かれている。というのも、ゴダールはこの女性が団地の住人を代表していると考えていたからだ。

ぼくが大いに気持ちをかきたてられたのは、この映画が描いているその逸話が、基本的な点で、ぼくの最も根の深い観念のひとつと結びつくものだったからだ。そしてその観念というのは、今日のパリの社会で生きていくためには、どんな生活水準にいる人であれ、またどんな社会的地位にいる人であれ、なんらかのやり方で売春せざるをえないというもの、あるいはまた、売春に関する掟を思わせるような掟にしたがって生きていかざるをえないというものだ。(ジャン=リュック・ゴダール「一本の映画のなかにすべてをもちこまなくてはならない」『ゴダール全評論・全発言I』)

つまり、どんな人間であれ、何らかの形態で売春をしている。もちろん、彼が念頭に置いているのは労働者のことだ。労働者は、さまざまなやり方で自分の人生を切り売りし、「したくはない労働をすることによって給料を受け取っている」。だから、この映画は売春行為そのものを告発しているわけではなく、売春が象徴する労働と産業資本の形態を解剖・分析し、さらにはそのあり方を吟味・批判しているのである。その業績は、未だに多くの示唆を与えてくれる。この映画の公開から四〇年以上が経過した現在においても、「売春」の基本的な構造は変化していないからだ。おそらく、変化したのは、その形態がより巧妙になり、象徴としての売春すらも覆い隠すほどのしたたかさを獲得したことだろう。たとえば、現代的なメガストラクチャーの内部では、「身売り」とは無関係に見える純粋な消費活動が行われ、その生活は快適で豊かなものに思える。しかし、消費活動は実は「身売りの」一部分にすぎないのである。消費は労働から自由ではありえない。というのも、消費は、次の労働を再生産するからだ。その点で、「純粋な消費活動」というイデオロギーは、「売春」の形態をより複雑でわかりにくいものにしていると言える。だが、ゴダールが主演のマリナ・ヴラディに言わせているように、当事者たちにとって、そんなことはどうでもいいのである。すなわち、「私をひと言で定義すれば“無関心”」なのだ。

880 美しき……の危機

他者の情報は美しき世界を可能にするが、もちろん、恐ろしいのは他者の情報が画一なものに回収されてしまうことだ。他者の多様性が確保されるためには他者の状態が常に異なっているという前提がなければならないが、「バーチャル」なものの出現は、その前提すらも覆してしまう。わたしたちの五感がすべて仮想空間に置かれるならば、二人以上の人間に同じ情報を入力するということは不可能ではない。結果として人間は単一の意識に収斂するのである。とはいえ、それは『エクスマキナ』のようにテクノロジーの暴走によって引き起こされるのではなく、わたしたちの目に見えないごくローカルな部分において、既に日に日に進行している。だが、「バーチャル」なものの繁栄は、この変化と無関係ではない。

879 美しき……

「わたし」の範囲を拡大するものは常に他者の情報だが、それは他者の情報を内部に取り込んで「わたしのものにする」ということではない。他者の情報が流入するとき、「わたし」は「わたし」であって「わたし」ではない、という奇妙な状態に置かれる。「わたし」は一時的に他者の情報処理システムに接続されるのであり、自前の情報処理システムは休止する。つまり、他者によってもたらされた情報は「わたし」とは別の情報処理システムによるものであって、それが通常では不可能な演算処理を可能にするのだ。むろん、最終的な処理は「わたし」によって行われるが、そのとき既に他者は切り離されている。したがって、他者の情報を「わたしのものにする」ことなどできないのである。たとえば、旧知の友人と明日から入れ替わって生活しろ、と言われたら、たぶん混乱するだろう。その友人に関する情報があまりにも限定的なものだったことに気づくからだ。いずれにせよ、一人の人間が処理できる情報量など知れたものなのだ。以前にも紹介した通り、人間が全身から受け入れている情報は毎秒一〇〇〇万ビット以上だが、最終的に残るのは毎秒四〇ビット程度しかない。しかし、すばらしいのは、この限定的な処理システムが地球上には六八億ほど存在していることだ。同じ状態の人間が二人以上いることはありえないので、毎秒一〇〇〇万ビットの入力はすべて異なった情報である。さらに、情報処理システムの種類は(表面上は)人間の数だけ存在するので、最後に残る毎秒四〇ビット(×六八億)の情報は実は非常に多様性に富んだ情報なのだ。この情報に接続することだけが、美しき世界を可能にする。

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